時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

「好きなおやつ」ですが、主食だったときも。かっぱえびせん

今週のお題「好きなおやつ」

 下宿生だったころ、これと牛乳で、一食分を賄っていたことがある。塩分、でんぷん、たんぱく質、カルシウム、油がまとめて摂れるので、栄養的にはOKということにしていた。もちろん毎日ではないが、「たびたび」くらいには世話になっていた。

 今でも、目にすると買ってしまうし、しばらく食べないと無性に食べたくなる。その手の食べ物はほかにもいくつもあるが、かなり上位に位置する。なんてことを書いている数日前にも食べていた。これほどのロングセラーになるにはマーケティング上の相応の理屈があるのだろうが、ややこしいことは考えず、手軽においしくいただく役目を全うしたい。

 

 かっぱえびせんで印象的なエピソードがある。妻が出産で産院に入院していた時のこと、隣のベッドの若い妊婦さんが、「こどものためにカルシウムをとらないといけないから」といって、かっぱえびせんばかり食べていたそうだ。それも、単に好きだから食べているのではなく、カルシウム摂取のためにしかたなく無理に食べている様子だったという。たしかに袋にはカルシウムの含有量が多いことが謳われてはいるが。

 病院なんだから、栄養については、栄養士さんや助産師さんに相談するとかすればいいのに、と思ったが、おせっかいを焼いてトラブっても嫌なので黙っていたという。食べますかと勧められたときは遠慮したそうだ。若いというより幼い感じで、10代くらいに見えたという。

 このエピソード、私がかぱえびせんをうれしそうに食べていると思い出すようで、何度か聞かされた。

 その時に生まれたうちの長女は、大学4年でいよいよ就活という矢先にコロナ禍に見舞われた。就職状況に関しては、ここ数年改善してきてラッキーだったね、といっていたのだが、まさに急転直下である。民間企業は採用を取りやめ、内定を取り消し、また公務員系では自治体では試験の時間短縮と求職生救済のためだろうか、従来の教養試験と専門試験という内容を大幅に変更して、民間で行っているような常識能力検査と性格検査に置き換えたということだ。これは違うんじゃないか?公務員を志望して専門試験のための勉強をしてきた人はどうなる?採用する側も、「コロナで希望の就職先が採用を取りやめたので仕方なく」みたいな人を雇っても、育成の手間がたいへんだろうに。

 と話がまた大幅に脱線したのだが、幸い長女は30連敗の後、ようやく1つ内定をもらえたようだ。そのことをバイト先の上司らに報告したら、本人曰く「引くほど」喜ばれたとのこと。いつのまにやら、そうやって自分なりの世間や社会を獲得していってるんだな、と思うと、ほっとする反面、寂しい思いもする。これからは、雛どもの巣立ちを祝いつつ、親鳥の方も変化や喪失に伴う成長が必要になってくるなぁ。

 

100均グッズで、超ずぼらな靴底修理をしてみた。

 通勤用の革靴なのだが、ゴムやウレタンの底がすり減って、雨の日、つるつるのタイルの上を歩くと、見事にすべってしまう。つるつるのタイルは、最寄り駅の改札前に使われているので、そんなところで転倒でもしたらみっともない。ということで、修理することにした。使用するのはダイソーの靴修理材。すり減った踵用のゴムと、靴修理用のボンドを準備する。で、作業はといえば踵にゴムをボンドで貼るだけ。コツらしきものは、ボンドが手にねちゃねちゃひっつかないくらいまで乾いてから貼り付けること。これが、わかっていても待てないのだ。で、まだねちゃねちゃしてるのに貼り付けて失敗するのである。じっと待ってるのが嫌なら、ドライヤーで乾かすという手もある。今回は辛抱して待った。待って、手にねちゃねちゃしなくなったら貼り付ける。ここは圧着なので、貼り付けたら圧迫しないといけない。靴の修理屋さんを見ていると、金づちでこんこんと叩いているが、そうするためには、靴を乗せる台がいる。缶ジュースのスチール缶でも代用できると聞いたが、うちには缶ビールのアルミ缶しかないので、ここは貼り付けた直後にその靴を履いて、踵をガンガン床に打ち付けたり、足踏みしたり飛び跳ねたりして圧着を試みる。ボンドがはみ出したりして見た目は汚いが、くっつけばいい、ということで。まぁ、その姿を見たら、かわいそうに、と思われるだろうから、人目を気にして行わなければならない。

 踵の次は足底。ここも足底用のシール型のすべり止めが商品化されていて、何度が使ってみたが、すぐにはがれてしまった。なので、ここは何も貼らず、ボンドをつけるだけにする。ボンドでWWWや###みたいな模様を足底に書くのである。書いたら、そのまま放置。丸一日放置しておくと、そのまま固まって、これが案外すべり止めになるのだ。応急処置のようなものだが、しばらくは持つ。すり減ったら、またボンドを塗りたくる。

 見た目は悪いけど靴の底だし。修理屋さんで張替えとか頼むと、そこそこかかってしまうし。「安い!」という理由だけで買ったような靴は、こんな感じで処置しながら使っている。

 「安い!」といえば、今日、某商店街で、300円でスラックスを買った。ポリ100%なので遠慮なく洗濯機で洗えるし、雨の日や雨が降りそうな日に優先して履くのだ。それ用だ。というと嗤われるのだが、根っからの貧乏性で、たまに高価な、というか、普通の値段の衣類を買っても、汚したりするのが嫌で、タンスの飾りにしてしまって、安いものを連日着ていたりする。この歳になると、そんなことをしているとすぐにズボンの腹が入らなくなるので、大事にしまいこんでたスーツをいざ着ようとしたら腹がぴちぴちなんでことになる。のだが、性分というのは直らないなぁ。でも、その300円のズボンがつるしてあったハンガーの横で、「このワゴンの中のものはタダ。ご自由に持ち帰ってください」とかかれていたワゴンの中は、見ないようにした。横目で見ていると、どうも婦人用の夏のジャケットっぽかったが。さすがにタダといわれると覗くのもはばかられてしまう。せめて50円くらいにした方が、早くなくなったかもしれない。

商売というのは難しい、というような話題ではなかったと思うが脱線した。

 

 

 

祖父と行った、らしい、西国三十三か所巡り

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 祖父は明治39年生まれかな。平成7年に89歳で亡くなっている。満かかぞえかわからない。痩せて小さくて、無口でおとなしいお爺さんだったが、お酒が好きだったそうで、仲間との旅行の写真では一升瓶を抱えて映っている。お盆や正月に親戚が集まって花札に興じていても、「酔っぱらってて手元が危うく、札が全部見えてしまっているから、カモにされてお金取られてばっかり」と同居していた叔母が言っていた。遊び程度の小銭だそうだが、親戚内でも勝負事となると容赦ないのか。それでも好きでよく遊んでいたという。

 父方の祖父母は早くに亡くなり、母方の祖母は、事情は知らないが離婚したそうでめったに会うことがなかったため、私にとっては、祖父母といえば、この祖父しかいなかった。

 それだけに、記憶には残っている。冬休みだったのだろう、祖父の家に泊まりに行っていたとき、近所の広大な広っぱで凧揚げをした。祖父はなぜか凧のことを「いか」といっていたが、本当にそう呼んでいたのか、ギャグのつもりだったのかは定かではない。脚をつけてバランスをとるために長さを調節したりして、なかなかの凧揚げ上手だった。今風のビニル製のカイトではなく、紙と竹でできた四角い凧だ。冬の強風にあおられ、怖くなるくらい高くあがった凧の糸に、紙をドーナツ状にちぎったものをひっかけると、糸を伝ってみるみる上空の凧の方に上がっていく。ドーナツは完全な輪っかではなく一か所切れ目をいれてあり、そこから糸にひっかける。祖父はそんな紙のドーナツをたくさん作って持ってきていて、糸に引っ掛けてどんどんと飛ばしていく。

 普段暮らしている街ではこんな凧揚げはできない。いまだに記憶に残る凧揚げだ。

 

 そんな祖父との記憶の中で、ひとつ心残りなことがある。小学校高学年になって、祖父の西国三十三か所巡りに誘われるようになったのだ。もう5年生だから、電車を使った小旅行に連れて行っても大丈夫だということだろう。なんでそうなったのかわからないのだが、祖父が一人ではつまらないから孫を、と思ったのか、孫と小旅行をしたかったのか。

 後で、叔母から聞いたと母から言われたのだが、祖父はこの小旅行に私を連れて行って、よく文句をいうやつだと辟易していたらしいのだ。でもね。小学校5年ですよ。お寺巡りにはまだ早いですよ。鉄オタでもないから電車に乗ること自体も楽しめないし、無口な祖父とお寺をめぐって朱印をもらうだけの旅は退屈ですよ。お寺の由来とかにも興味ないですよ。だからぶつぶつ言ったんでしょうね。凧揚げは覚えていても、お寺の記憶がまったくないのです。

 祖父も気を使ったようで、機嫌直しに、帰りに映画を観ようということになったんですが「ドラゴンとかいうから怪獣の映画かと思ったら、空手の映画やった」といってたそうです。これ、覚えてます。「ドラゴン危機一髪」です。ブルース・リーです。当時は「ブルー・スリー」だと思ってましたけど、当時の小中学生のあこがれの的です。ぼちぼち仮面ライダーを卒業する時期に現れた変身しない等身大のヒーローです。今見たら、悪い奴に騙されて、色っぽい店で酔っぱらってるようなシーンもあったので祖父は驚いたんでしょうけど、そんなシーンには関心なく、ひたすらアクションシーンに酔いしれていたんだと思います。ヌンチャクのおもちゃも買ってもらいました。おじいちゃん、その節は、せっかくの西国三十三か所めぐりを、楽しく過ごさせてあげられなくてごめん。

 今日、墓参りをして線香をあげてきた。

自転車散歩 去り行く季節を惜しんで。二色の浜

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 好天。最高気温28℃の予報。なので海を見に行くことにした。コンクリートで囲まれた海ではなく、波があって磯の香りのする海に。

 というわけで、今日のチャリ散歩は二色の浜を目指す。もう何度か行っている。ぶらぶらと散歩気分で走って1時間半くらいの行程だ。行きは国道26号を使った。車で行くときに使うルートで、自転車で走っても面白くはないのだが、国道沿いのいろいろな店を見ながら走る。店といっても全国チェーンのお店ばかりで珍しい店があるわけではないが、その手の店には、急にトイレを借りたくなっても、わりと気兼ねなく入れるとか、安心感がある。堤の交差点を右折して狭い道に入る。この道をまっすぐ行けば、海水浴場に着くはずだ。昔、車で行くときにこのルートを使った。

 さて、堤の交差点を右折してしばらくいくと、「奏」というおしゃれなホテルができていた。大浴場もあるらしく、関空からのお客さんを狙ったホテルなのだろう。関空に近いところで一泊する、という目的なら、海が近くて大浴場もある、というのは売りになるのかもしれない。きっと料金もリーズナブルなのだろうし。

 昔、車で来ていたころの記憶では、この道沿いに、「オクトパス」というラブホがあったはずだ。二色の浜から国道26号に接続するこの狭い道は、海水浴シーズンには当然渋滞するので、渋滞する車の中でよくこのホテルを話題にした。海水浴帰りのカップルを狙っているのだろうが、その気はあっても、この渋滞の中、入っていくのはひるむだろうなぁ、というようなしょうもない話なのだが、その話をしているのは、ひるむ必要もまったくない、ラブホとは無縁の面々だった。

 あれがつぶれて「奏」になったのか、と思ったが、いやいや、ちょっと進むと、しっかりとそのホテルはあった。名前はオクトパスではなくなっていて、外観はボロボロで、もしかしたらもうやってないのかもしれないが、建物はかろうじてあった。

 ホテルをやり過ごすと、ほどなくして二色の浜公園に着く。

 浜のそばの空き地は、今日は無人だが、海水浴シーズンには駐車場として営業をしている。車で通りかかると、おっさんが飛び出してきて、奥はいっぱいだし、高いで、ここなら一日中停めても1000円だ、今なら空いてる、と営業してくる。たしかにこの車の量なら、ビーチに近づけば近づくほど、駐車もしにくくなりそうなので、誘われるままにそこに停めることが多かった。実際、ビーチのそばは満車になっていることが多く、あつかましいけど、悪徳業者というわけではなさそうだった。

 

 公園の前の駐輪場に自転車を置いて、まずはビーチに向かう。白い砂浜が広がっている。今年はどこの公園もそうだが、ここもバーベキューが禁止されていて、快適だ。9月も下旬なので水に入っている人はいないが、波打ち際で子どもが遊んでいる。ウィンドサーフィンがいくつか漂っていて、その奥にジェットスキーが数台けたたましい音を立てて走っている。

 しばらくウィンドサーフィンを眺める。楽しいのだろうが、あの大きな道具を運んでくるのも大変だろうな、と思いながら、ビーチで、遊ぶ幼児の足首をぺちゃぺちゃする程度の小さな波と磯の香りを味わった。これで今年については、夏のノルマを果たしたことにする。

 

 ビーチを後にして、スポーツエリアの方に足を延ばそうとさまよっていると釣り場なのかどうなのかわからないが、ビーチのはずれに、海に向かって細長くつきだした通路がある。そこから何人かの釣り人が糸をたらしている。突端まで行くと、そこでも子どもたちが釣りをしている。そんな風にぽつぽつと人はいるが静かだ。釣り人は寡黙なのだ。足元から聞こえる波の音と、遠くのジェットスキーのモーター音がさらに静けさを演出している。水平線に目をやると、関空の橋と淡路島の島影が見える。

 そのあと、スポーツエリアに行ってみた。テニスコートの裏側にあたる海岸が、公園として整備されている。ここも人気がない。ぼんやりと海を眺めながら、缶ビールを飲む。

 ビールは、天気のいい野外で飲むのが一番うまい。普段そんなにビールを飲まないが、こういうシチュエーションはビールに限る。ビールでなきゃ、という感じになる。ただしこの時期、やぶ蚊に食われるのでそこだけ注意。

 二色の浜公園の傍に、虹の湯というスーパー銭湯があって入るつもりでタオルを持ってきていたが、結局入らなかった。毎回そのつもりで来るのだが、海を見ていると、風呂とはいえ建物の中に入るのが惜しくなってしまう。

 

 帰りは海沿いの道を走り、途中から紀州街道に入る。街道に入ると、不思議なもので気温が幾分下がった気がする。古い屋敷が残っていたり、古い店や看板が残っていたりする。街道の道幅は狭く、たまに車が通り、自転車とすれ違うが、歩いている人はあまり見ない。静かだ。街道のチャリ散歩はなかなかに味わい深い。国道26号線が効率的な移動なら、こちらは小さい旅だ。

 

 で、気づいたのだが、このルートは海を見るための夏の定番になっていて、例年、最高気温が35℃を余裕で超えるような日に行って熱中症で自転車ごと転倒したこともある決死の行軍だったのだが、今日のような快適な気温なら、なんてことのない、まさに快適な散歩が楽しめた。何より二色の浜に着いて「あれ、こんなに近かったか?」と思ってしまった。

 けど、やはり真夏の海が見たいので、来夏も猛暑の最中に行くと思う。で、軽い熱中症の症状を呈しながらよろよろになって帰宅して冷水のシャワーを浴びる。何かの行のようなのだが、行ける間は自転車で行きたい。

おばぁはん 84歳。ついに登場す。

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 おばぁはん84歳。私の母であるが、ここは私の娘の視点で、おばぁはんと呼ばせていただこう。

 近親者の行動で、あきれたり、笑ったり、困ったりするキャラは、だいたい、マルかおばぁはんである。

 おばぁはんはいつも、物を無くす。家の中で物をなくして探し回っている。どうもそれが日常のようで、探すものがないと退屈してしまうから、何か探している方がいいらしいのだが。

 物を無くす状況は決まっている。

 「大事な」あるいは「ようわからんけど大事そうな」物を、「無くしたらいけないから見えるところに置いておこう」と思って「見えるところに置いた」ことは覚えているのだが、家の中に「見えるところ」が複数あるので、その時にどこが「見えるところ」だったのかがわからなくなるのである。とはいえそんな大きな家でもなく、たいていはリビングのガラスの扉のついた戸棚で、そこはたしかに、かなり「見えるところ」なのだが、なぜかそこにない。おかしい。ここに置いたはずなのに。どこへやってしまったのか…。というところから「探しものの旅」がはじまる。

 

 さて、どこに置いてしまったのか。ここにもパターンがあって、たいていの場合「見えるところに置いておこうと思って、手に持って「見えるところ」まで行こうとしたが、そこで何か予期せぬことが起こって、「見えるところ」にたどり着かなかった」というシチュエーションになるようだ。要するに「作業中断」で、これは多くのうっかりエラーの原因となる危険因子である。

 ただ、おばぁはんの場合、作業中断の原因が、「電話が鳴った」「ドアのピンポンが鳴った」などの外的要因だけではなく「持っていこうと思って立ち上がったら、何か他のものが目に入って、それが気になって、そっちを先にしたため」というご自身の要因が多いのだ。そして作業中断の際にたびたび起こるのが、「気になったことを先にやろうとしたときに、手にしていた先の作業を中断するにあたり、手にしていた物をひとまずテーブルに置くのだが「大事なものだからとられてはいけない」と思い、そばにある紙や布などを、とりあえず、上にかけて隠す」という行動なのだ。

 文字にするとまどろっこしいが、なぜかとっさに隠してしまうのである。机にぽっと置いたものを、誰が盗るねん、そもそも一人暮らしやないか、と思うのだが、これはもう習性なのだろう。

 で、自分で隠したことを忘れ、作業中断の前の「見えるところに置いておこうと思った」ことを思い出し、「見えるところ」を探してみるのだが当然ないわけで「そんなわけない」「これはよほどわかりにくいところに置いてしまったに違いない」と、とんでもない遠方から探し始めるのである。たとえば台所の食器棚のめったに開けない天袋のようなところ。

「そんなとこに置くわけないやろ。第一、手が届かんやろ。そんなところに置くために椅子持ってきて乗ったりしたんやったら、そのことは覚えてるやろ」とこちらはどんどんとヒートアップして声も大きくとがってくる。

 で、探し物手伝いに同行していた孫娘さんが、これがまた単なるキャラなのだがのんびりと穏やかに対応しながら探し物を手伝って、それこそ、もともとあったテーブルの上に積んだ新聞紙の下、みたいな「さんざん探してここかよ」みたいなところから見つけるのである。今回は、自分が座っているところの敷物の下に探し物はあった。そこもめくって探した、といってはいたのだが。」

 とっさに物を上に乗せて隠してしまう、という習性は知っていたが、敷物の下に隠す、という技もあるのだと知った。次回は敷物の下や座椅子の裏なども探さないといけない。

 これって認知症の初期症状かいうと、まぁ、年齢からしてそうであってもおかしくないのだけど、けどこのおばぁはんは、まだ若くておばちゃんだったことからこうなのだ。子供の頃、同じようによく物をなくして、探し物をしては父親からこっぴどく叱られていたのを何度も目撃して覚えているのだ。おねえちゃんの頃のことははさすがに私は知らないが、少なくともまだ若いおばちゃんだったころからそうなのだ。

 だから「歳のせいだと思って落ち込むな。これは歳のせいではなく、昔からの傾向だ」と、叱っているんだか、励ましているんだか、私としては励ましているのだが、言ってみてもへらへらと笑っている。

 このおばぁはんのすごいのは、どんな失敗をしても、常に全開で笑っていることだ。孫娘は最初は感心して、おばぁちゃんはスーパーポジティブ老婆、とかいってリスペクトしていたのだが、最近はややあきれ気味だ。

 ただ、神経質で、晩年ちょっと失敗すると「もう俺はダメになった」「こんなこともできなくなった」とうっとうしいくらい激しく落ち込んで、「いかに死ぬべきか」みたいな本ばかり読んでいた父親の方は、やはりというか、なんというか先に亡くなった。とはいえ、平均寿命は超えていたし、要介護状態で長患いすることもなく、入院して半年で亡くなったので、介護保険適用の介護サービスは生涯何も使わなかった。そういう意味では、十分にぴんぴんころりだったといえる。と思っている。

ちなみに父親の血液型ははA型、母親はB型だ。ついでにいうと息子の私はAB型で弟はO型である。

「旅行の友」をぱらっとひとふり

今週のお題「ごはんのお供」

ごはんの供、と聞いて印象に強いのは、ふりかけの「旅行の友」である。田中食品という広島の会社が作っている。最初の出会いが、記憶は定かではないが、小学校低学年くらいであったと思う。祖父の家に泊まっているときに食卓に置いてあったのを覚えている。

 祖父の家、といっても、当時の住まいから電車とバスで、1時間あまりではあったが、家には土間があり、井戸があり、トイレは庭先の小屋にあり、街中の団地の住民にはまったくの異世界で、やはりそこは、小学生には非日常のわくわくする世界なのである。隣近所に同年代の親戚の子が住んでいて、朝から晩まで遊べるのも興奮だった。祖父の家に泊まっている間中が異空間で繰り広げられるお祭りのような日々だった。そんな日々の中で出会ったのが、「旅行の友」だったのだ。たぶん祖父の家で初めてみたんだと思う。家にあったのりたまよりもずっと美味いと思えたものだ。

 パッケージに書かれた、鋏が入った切符が頭髪になった少女だか少年だかのイラストが印象的だ。このイラストは、今でも変わらない。それにしても、なんでふりかけが「旅行の友」なのかな。そうか。昔は木賃宿みたいなところに泊まる時は、ごはんだけは出してもらえたのか、それともお米を持っていって炊いてもらうのか。少なくともおかずの準備がないから自分でふりかけを持ち込みしていたのか。このふりかけができたのが大正時代だというから、当時の庶民の旅行といえば、そんな風だったのか。時代やなぁ、と勝手に旅情や郷愁を感じていたのだが、調べてみたら、戦争中に戦地で食べる携帯食として開発されたのだそうだ。印象が一気にヘビーになってしまった。

 が、まぁ、そんなことより今でも美味いし、関西だとどこのスーパーでも売ってるし、家にもいつもある。変わらずにいてほしい一品である。

田中食品 旅行の友 23g

 

自転車散歩 大泉緑地の緑と風を楽しむ

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 この広大な緑地は周回路だけでなく、園内にも複数の小道があって複雑だ。もう何度も来ている場所なのだが、まだそれぞれの道を覚えきれてない。ここもコロナの影響でバーベキューが禁止されていて、それがとても快適なのだ。コロナが収束しても、バーベキューは再開しないでほしい、と思うけど無理かな。

 バーベキューがないからか、残暑が厳しいからか、人出は多くない。日差しは強いが、九州を襲った台風9-10号の後は気温は35度を超えない程度で落ち着いている。草むらからの秋の虫の声と、樹上からのつくつくほうしがBGMになる。

 ゆっくりと園内を気ままに走り回る。気が向いたら自転車を降りて、写真をとったりするが、基本的に走り回っている。止まらない。何故かはわからないが、そういうことになっている。

 緑の濃淡もそうだが、木々の間に光る木漏れ日が見れるのもこの緑地のいいところだ。またたまたまだろうが、草の丈が高くなっていて、日の当たっている原っぱでは草のにおいが強い。

 チャリ散歩をしていると、走っている間は当然常に風の中にいるのだが、自転車を降りると、木陰の涼しさやそこを吹き渡る風の心地良さをより強く感じる。この心地良さは夏の炎天下の暑さとのバーターで、冷房の効いた部屋にいては体験できない。涼しい時期も、寒い時期も、チャリには乗るのだが、やはり炎天下を熱中症になりかけながら走るのがよい。日陰の涼しさやや風の心地良さは、やはり真夏でないと味わえない。

 ただ、この時期木陰で涼んでいるとやぶ蚊に食われる。8月の炎天下ではやぶ蚊も動けなかったのかもしれないが、猛暑から気温が少し下がると虫が活発に動く。園内では、テントを張って静かに過ごしている人もちらほらいるが、やぶ蚊対策はどうしているのだろうか。日焼けについては頓着していないのだが、虫よけは持ち歩かないといけないのかもしれない。

 帰り道、遠回りになるが、図書館に寄ることにした。その道中はアップダウンが多く、かなりきつかった。ふらふらで図書館に入って、冷房を発明した人に激しく感謝した。で、ばてた体を休めたかったのだが、あったはずのソファが「密を防ぐ」との理由で撤去されているのに気づいて激しく憤る。

 ソファがあったから、座って、顔近づけて大声でしゃべってしまった。感染したのは、ソファを置いた図書館、つまり市役所の責任だ!というやつがいるんだろうか。いるのかもしれないし、SNSで屁理屈こねて誹謗中傷するのを趣味にしている人間もいて、やぶ蚊みたいなもので、たかられるとたしかにうっとうしいが、なんかピントがずれてないか?

 とぶちぶちいいながらも、じゅうぶん涼むことができて感謝して帰路につく。

襲来(上・下)帚木蓬生 講談社文庫

 上巻を読んでいると思っていた。だから上巻のラストを読んで、この後に下巻があるということは、下巻は第2幕として新たにスタートするのかと思っていた。で、読了して書皮を外したら下巻だった。

 え、ということは下巻から読んでしまったのか!と思ったけど、そんなことはなく、上巻も読了していた。嘘のようだが本当だ。なんでこんな記憶違いをしているのか、認知症の初期症状か、かもしれないが、きっとそうだろうけど、それだけ夢中になって読んでしまったのだと思っておく。ことにする。

 作者の帚木蓬生氏の作品はかつて何作も読んでいるが、外れだった記憶がない。今回も、すっかり引き込まれてしまった。

 教科書レベルの歴史の知識としては、元寇という言葉は知っていたものの、元という国に攻めてこられたが、神風が吹いて助かった、程度の認識だった。しかし、対馬壱岐の住民は侵略され、惨殺され、あるいは奴隷として拉致されている。第二次大戦の沖縄のように、小さい島が犠牲になって本土を守った、という事実が「神風が吹いた」のことばの裏にあったことを知った。

 また対馬の惨状を伝えたのが日蓮であることも事実のようだ。神風が吹いて蒙古を撃退した、日本は神に守られた国だ、という解釈は、どうも後付けだったようである。

 対馬壱岐はじめ蒙古の襲来を受けは被害は大きかったものの、最終的には合戦にて勝利し蒙古が退散したようで、鎌倉時代の武士は強かったのかもしれないが、それにしてもこの話が、どう解釈されて「海の向こうから悪い奴らが攻めてきたが、神風が吹いて神の国日本は守られた」というエピソードになっていったのか。この認識が「神風」という言葉に宿って特攻隊の看板にされてしまったことを思うと、歴史を学ぶ、ということの重要さがわかった気がする。

 SNSを眺めていると、今でも戦時中の日本軍の行為について、あったという人、なかったという人が、左右の陣営にわかれて口論を繰り返しているが、それぞれの解釈によって事実が伝わりにくくなっているとすれば、それもまた残念なことである。

 もちろん仮に研究が進み事実が明らかになったとしても、解釈は個々によるのだと思えば、論争の終わる日はないのだろうが。

 ドラマとしては主人公と対馬の住民の触れ合いを描きながら、惨劇後は、身近だった犠牲者について主人公が時折述懐するくらいにとどまっているのが、やや物足りないとも思ったが、過度にドラマ化するのではなく、戦った武士側とも、犠牲者になった住民側とも距離が保てる立場であり、かつ何の権力も持たない一市井の人物を主人公にすることで、より全容がリアルに迫ってくる印象があった。

太陽にほえろ! 13日金曜日 ボン最期の日

 俳優の宮内淳さんの訃報を知った。宮内淳さんといえば、僕にとっては、太陽にほえろ!のボンだ。

マカロニ、ジーパンという不良っぽい新人刑事が、型破りな捜査と壮絶な殉職で強烈な印象を残したことで、人気を不動のものとした「太陽にほえろ!」は、ジーパン殉職の後、不良っぽさのかけらもない純朴な柔道青年を新人刑事にキャスティングする。勝野洋演じるテキサス刑事だ。このテキサスの人気もうなぎ上りで、マカロニやジーパンが殉職した1年目が近づくにつれ、ファンから助命嘆願書がテレビ局に届けられたのだという。そのおかげか、テキサスは延命して2年目に入り、ボンがメンバーに追加されたのである。登場回のタイトルは「ぼんぼん刑事登場」。大阪出身で、心配性の祖母の役でミヤコ蝶々さんが出演。ミヤコ蝶々さんが、宮内淳さん扮する田口良刑事に対して「ぼん」と大阪弁で話しかけたので、あだ名がボン。

 宮内淳さん自身も大阪市内の阿倍野高校出身ということで、大阪弁の新人刑事かと期待したが、大阪弁でセリフをいう機会はほとんどなかったかなぁ。

 ボンが入って1年後、2年目を全うしたテキサスがついに殉職。翌週から沖雅也扮するスコッチ刑事が登場する。スコッチは、テキサスのさわやか体育会路線に一石を投じるクールな一匹狼で、番組の定番になっていた「ボスが、事件は解決したものの、悩みを抱えてしまった刑事にさりげなく寄り添う」というシーンで、ボスが自ら運転する車に、「乗るか?」と声をかけてもそれを断る、という当時の七曲署の空気ではありえない行動をとる。スコッチの存在は、時として馴れ合いになりがちだった一係に緊張感をもたらした。そのスコッチは、半年ほどで七曲署を転勤という形で去り、しばらく若手刑事がボンだけ、という時期が続き、ロッキー刑事の登場となる。ボンも先輩となり、下ろしていた前髪を上げて、タフな先輩を演じていた。ロッキーが入ってきたことで、ボンは、山さんやゴリさんと同様、殉職枠から外れたのだと思っていた。僕はそれを歓迎していた。そのくらい、ボンは七曲署になくてはならないメンバーになっていたのだ。しかし、その時はやってきた。マカロニに次ぐ13日金曜日の殉職劇は、名残惜しさを体現したかのように長い時間をかけて「その瞬間」を引き延ばしたが、ついに電話を通じてボスの声を聴きながら最期の瞬間を迎えたのである。銃弾を受け、血を流しながら、遠くの電話ボックスまで歩く間に、「俺の血、こんなに出て、あそこにつくまで、残ってるんかなぁ」と大阪弁でつぶやいた、という記憶がある。

 なんてことを、ほとんどそらでいえてしまうくらい、実は「太陽にほえろ!」フリークだった。今のようにDVDなどない時代、自らの記憶と、写真集くらいしか、あこがれの刑事たちを再現する術がなかった。

 宮内淳さんで覚えているのは、学園ドラマの続編の主役が決まったときだろうか、前作の主役だった中村雅俊さんとの対談を雑誌でみたことだ。その際に中村雅俊さんから送られた言葉として「いつまでも、あると思うな人気とお金」というのを色紙に書いてネタにしていたのを覚えている。

 ボンのセリフでは、新人のロッキーが「ボンさん」と呼ぶのを「その、ボンさんっていうのやめろよ、先輩でいいよ、先輩で」というのや、オーストラリアのロケで、日本食を恋しがって、「あつあつのごはんに海苔の佃煮かなんかベターっとかけて」とふっておいて、ロッキーがそれに同調したらキレる、という2つが、なぜかわからないけど、記憶に染みついている。たとえば、今でも海苔の佃煮のビンを見ると、そのセリフがふと浮かんでくるのである。もっと肝心なことでもたくさん忘れているのだから、何かの拍子でそんなことになったんだろう。幼少の頃の出来事でも2~3、鮮明に思い出すシーンがある。覚えていてどうなるわけでもないし、印象として強いエピソードでもないのだが。脳の不思議とでもいうしかない。

 脇道にそれたが、宮内淳さんは、その後は早々に俳優をやめて、児童劇団や地球環境を考える活動をしていたそうだ。

 意識的に俳優をやめて、高い志で取り組んでおられたのだと思う。けど生活費はどうだったんだろう、とか、下世話なことを考えてしまう。

 七曲署の刑事を演じた俳優さんも鬼籍に入られた方が多くなってきた。番組の開始から、もう50年近くになるのである。それでもテーマ曲は、今でも心のアクセルを踏み込むときに欠かせないBGMとして、スマホの中の音楽ファイルでも1・2を争う再生数になっている。

 各刑事のテーマ曲の中でも、「ぼんぼん刑事のテーマ」は、ナイーブな曲調で、名曲だ。

 

読書メモ アイドルやめました。 大木亜希子 宝島社

 著者は、AKB48グループの中のSDN48でアイドルをしていた。今は、フリーのライターとして活動している。本書は、そんな著者が、自身と同様にAKBグループを辞めたメンバーのその後についてまとめたドキュメントである。

  2011年にAKB48は「フライングゲット」でレコード大賞を受賞する。その年の紅白歌合戦では、紅組の5番手として、AKBグループ総勢210名がNHKホールのステージを埋め尽くした。その中に著者も参加していた。youtubeで当時の映像が確認できる。AKBグループとして3曲をメドレーで歌うのだが、1曲目はAKB48の主要メンバーだけで、2曲目から続々と姉妹グループのメンバーが登場する。総勢210名がステージにひしめき、個々の顔が画面で確認できるのは、AKBの主要メンバーくらいで、姉妹グループのメンバーは、その他大勢だ。最後、全員で人文字を作って出番は終わる。

 その後、姉妹グループのメンバーは、他の出演者の邪魔にならないように荷物用のエレベーターでホールの出入り口に行き、そこからロケバスで帰路へ。著者は、その後ひとりで電車に乗り実家に向かう。22:30には、実家でジャージに着替え、年越蕎麦を食べながら、自分が出ていた紅白歌合戦の続きをテレビで見ていたそうだ。序章でそのことを知って、アイドル界の裏事情へのミーハー的興味が高まり一気に読んでしまった。

 この本には8名の元アイドルのセカンドキャリアがつづられている。それぞれアイドル時代に激しい競争の世界に身を置き、メンバー間で比較され、自尊心を砕かれ、それでもまた立ち上がってチャレンジを続ける。そして、それぞれのきっかけでアイドルを辞め、セカンドキャリアを選択するのだが、15~16の彼女らを熾烈な競争に巻き込み、過酷な体験を強いた側の目的は、金儲けなのだと思うとやりきれない思いもする。

 もちろん芸能界を目指すなら、実力以上に運にも左右されるハイリスク・ハイリターンの世界に身を置くことは承知の上であるだろうが、ここまで意図的に競争させられたケースは芸能史でも類を見ないのではないか。観客にとっては、彼女らの競争を見物することが娯楽になった。いわゆる「総選挙」の結果は、翌日の一般紙の朝刊を飾った。

 この企画、「選挙」とは名ばかりで、投票側は、金を出せば出しただけ選挙権が買える、そして、出馬しているアイドルの中で、一番金を集めたものが優勝するという、金集め大会なのであった。

 本書を読むと、アイドルを辞めた本人たちは、夢をあきらめるにいたったほろ苦い後悔が少しはあっても、未練はなく、さばさばと次の道を歩いているようだ。過酷な競争の中で自他のさまざまな感情にまみれた経験値は、同世代の若者の比ではないだろう。次の道を見つけたのであれば、アイドル時代の経験はきっと役に立つに違いない。

 それにしても、である。この過酷な競争に勝ち続け、その頂点に輝くなど栄華を誇ったAKBの主要メンバーも、今はほとんどが「卒業」と称してグループを離れている。その卒業メンバーも、芸能界にいるにもかかわらず、数名をドラマの端役で見かける以外はほとんどテレビで見ることもなくなった。渡辺麻友さんは芸能界から引退したという。少女時代に過酷な競争の世界にいたので、今はのんびりとマイペースで芸能活動をしているのか、あるいは、芸能人としての野望は人一倍あるが、グループの戦術を離れた今となっては、芸能人としての個人の商品価値に見合う活動に収まっている、ということか。

 いずれにしても、彼女らを使って、おっさんらが大儲けしたのは確かなようなので、節税などせず、たっぷりと税金を払っていただきたい。