時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

襲来(上・下)帚木蓬生 講談社文庫

 上巻を読んでいると思っていた。だから上巻のラストを読んで、この後に下巻があるということは、下巻は第2幕として新たにスタートするのかと思っていた。で、読了して書皮を外したら下巻だった。

 え、ということは下巻から読んでしまったのか!と思ったけど、そんなことはなく、上巻も読了していた。嘘のようだが本当だ。なんでこんな記憶違いをしているのか、認知症の初期症状か、かもしれないが、きっとそうだろうけど、それだけ夢中になって読んでしまったのだと思っておく。ことにする。

 作者の帚木蓬生氏の作品はかつて何作も読んでいるが、外れだった記憶がない。今回も、すっかり引き込まれてしまった。

 教科書レベルの歴史の知識としては、元寇という言葉は知っていたものの、元という国に攻めてこられたが、神風が吹いて助かった、程度の認識だった。しかし、対馬壱岐の住民は侵略され、惨殺され、あるいは奴隷として拉致されている。第二次大戦の沖縄のように、小さい島が犠牲になって本土を守った、という事実が「神風が吹いた」のことばの裏にあったことを知った。

 また対馬の惨状を伝えたのが日蓮であることも事実のようだ。神風が吹いて蒙古を撃退した、日本は神に守られた国だ、という解釈は、どうも後付けだったようである。

 対馬壱岐はじめ蒙古の襲来を受けは被害は大きかったものの、最終的には合戦にて勝利し蒙古が退散したようで、鎌倉時代の武士は強かったのかもしれないが、それにしてもこの話が、どう解釈されて「海の向こうから悪い奴らが攻めてきたが、神風が吹いて神の国日本は守られた」というエピソードになっていったのか。この認識が「神風」という言葉に宿って特攻隊の看板にされてしまったことを思うと、歴史を学ぶ、ということの重要さがわかった気がする。

 SNSを眺めていると、今でも戦時中の日本軍の行為について、あったという人、なかったという人が、左右の陣営にわかれて口論を繰り返しているが、それぞれの解釈によって事実が伝わりにくくなっているとすれば、それもまた残念なことである。

 もちろん仮に研究が進み事実が明らかになったとしても、解釈は個々によるのだと思えば、論争の終わる日はないのだろうが。

 ドラマとしては主人公と対馬の住民の触れ合いを描きながら、惨劇後は、身近だった犠牲者について主人公が時折述懐するくらいにとどまっているのが、やや物足りないとも思ったが、過度にドラマ化するのではなく、戦った武士側とも、犠牲者になった住民側とも距離が保てる立場であり、かつ何の権力も持たない一市井の人物を主人公にすることで、より全容がリアルに迫ってくる印象があった。