時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

おばぁはん、84歳。再び登場す。

 もうじき亡くなった父親、つまりおばあはんにとっては亡父の命日。その前にお墓の花を替えておきたい、というので、花を持って墓参りにいった。帰りにスーパーに寄って食材を調達し、子どもたち、つまりは孫も合流して、にぎやかな晩御飯だった。のに。

 

 のに。次の週になって、電話がかかってきた。次男が立ち寄ったので、しばらくお墓参りもしていないし、もうすぐ命日なので、花を替えておこうと思ってお墓に行ったら新しい花が供えられていた。誰か来てくれたのだろうが、誰だろう。親戚や友人に電話して聞いているのだが、誰も知らないというのだ、ということだ。我々が行った後に誰かがお参りしてくれたのだろうか。

 

 とりあえず墓に行ってみると、供えられているのは、やはり先週、我々が供えた花だった。涼しい季節には花も長持ちするようで、まだ生き生きとしていた。だから数日前に供えられた、と勘違いしたのか。それにしても、である。墓参りの後、久しぶりに孫に囲まれて食事したことまできれいさっぱり忘れていたようで、これはちょっとまずいのではないか、と不安になった。が、本人は相変わらずへらへらしていて、いたって陽気に過ごしている。陽気で元気なぼけ老人、というのがどういうものなのか、いまいちわからないので不安はさらに増していく。

 

 その数日後、定例になっている母の姉妹や従妹たちの「かなりの高齢者の集い」に参加して、そこでさんざんネタにされたようだ。もちろん定例会の参加者は全員「花供えてくれたか?」と電話されているのだから、皆さん当事者なのだ。

 

 「お墓のお花、誰がお供えしてくれたんか、わかったん?」

 「わかってん。私やってん」

 「はぁ?」

 

みたいなことで、かなり盛り上がったらしい。

 

まぁ、ええけど。

 

 その次の週はうちで鍋をするので招待した。いつも遠慮して来ないのだが、今回は半ば強引に連れてきていっしょに過ごした。その一週間後、母から小包が届いた。歳暮にするような進物品で、また何を送ってきたのかと電話をすると、届いたか、という。これは何?と聞くと、最近、近隣の年寄り仲間と共同で加入した生協で注文して送ったのだという。

 「生協で進物もやってるっていうから、ちゃんと届くんか、あんたと弟のところに送ってん。ちゃんとついたんやな」とのことだった。

 生協、信用されてへんのか…。

 

 先週、うちで鍋したの覚えてる?と聞くと覚えてるで、と。その時、晩御飯に食べようとしていたスーパーの弁当の食べ残しを冷凍庫に入れて凍らせたのは、もう捨てたよね、と聞くと、食べたで、と。それ食べんでええから捨てや、というて、鍋にしたのに、お腹の具合悪くなってないのか、と聞くと、大丈夫や、鍛えてるから、と。

 どうやって鍛えるのかわからんけど。

 自宅でとはいえ、鍋囲んだりしたから、コロナの心配もしてたのだが、いたって元気に笑っている。やはり鍛え方が違うのか。さすが戦中派ということか。

 まずは、何よりである。

低視聴率にあえいでいるらしい、ドラマ「姉ちゃんの恋人」

 先に、「このドラマはファンタジーだ」と感想を書いたが、どうも視聴率が振るわないらしく、たまたま目にした批評によると、善人しか出てこない、という設定はいいのだが、特に3人の弟の善人っぷりにリアリティがない、と、話題になった「私の家政夫ナギサさん」を引き合いに出して論じている。

 まぁ、そうかもしれない。「わたナギ」も毎週観ていて楽しんだし、確かに、登場人物はそれぞれ、家庭や私生活に、そこいらにもありそうな悩みを抱えていた。それと比べれば、「姉恋」の方はリアリティがない。だからこその「ファンタジー」なんだというのが私の感想なのだった。

 確かに3人の弟は出来すぎている。すべての人が、安達桃子(有村架純)を認め応援しているという世界で、観客の誰が桃子に感情移入できるのか。ないない、ありえへん、というのが正解だと思う。そやからファンタジーなんやって。観ている途中で、なんかにこにこしている自分に気づいて「あ、にやけてるわ」と思いながら、小難しい顔を作って続きを観る。

 そんな時間があってもええやん、と思う。が、そう思う人が少ないから視聴率7%なんかな。

 いや、違うな。ええおっさんが何にやにやしながらこんなん観とんねん、と思われたら嫌やから、一人こっそりTverで観てるんやと思う。有村架純さんも、しもぶくれの輪郭があらわになる髪形をあえて多用して、普通の一生懸命なだけの女子、を演じているんだと思う。twitterでエラがどうしたこうしたって書かれてるのを見たことがあるが、どうどうとエラをさらしていてえらい。

 

 ちなみに、全く関係ないのだが、NHK連続テレビ小説「おちょやん」で子役の女の子が、南河内の貧乏な家の子の設定で、トータス松本演じるめっちゃあかんおとんに「あほんだら、ぼけ」とかいうのがめっちゃ面白くてかわいい。もう、出ないのかな。NHKやけどなぜかTverで限定配信やってるようだ。

読書メモ 「バラカ」  桐野夏生 集英社文庫 

  作者本人が、新聞のコラムで触れていたので気になって読んでみた。後で別のコラムを読むと、震災は構想中に起こり、物語に組み込まざるをえなかったとのこと。震災後の日本と並走しながらの連載だったようだ。
  興味があったのは、あの震災は、作家的想像力によってどう解釈されているのか、というところだった。
   ディストピア小説というのだろう。描かれているのは、あまりにも救いがなく、誰もがもがけばもがくほど不幸になっていく世界だった。
   書かれたのが震災の直後で被害の全容もわからない中、最悪の事態に向けて、作家の想像力は、ネガティブな方向に走り続ける。
  今読めば、そこまでにはならなかった、そこまではさすがになかった、とも思えるが、震災を期に東京から、遠い南方の島に移住した人もいるので、当時はそれがリアルな恐怖だったのだ。
  とはいえ、小説に書かれたような陰謀がゼロだったのか、政治は純粋に、そして真摯に人々の暮らしの復興に尽くしたのか、と問われれば真実は知るよしもなく、当時の国会議員のおバカな発言や態度、行動がワイドショーのネタに重宝されていたことだけが思い出される。結局は似た方向のことは無くはなかったんだろう、と思わせてくれる。
  いずれにしても、震災が、この作品の骨子を変えてしまい、作家は想像を絶する現実の中で、必死に作家的想像力を振り絞ったのではないか。


  小説は、一応完結はしているが、書きかけた物語は、終わるはずがない物語である。
   まもなく震災から10年。予定されていた五輪について、物語の中で作者はある想像をしているが、ウィルスという新しい、かつ地球規模の脅威によって延期になるところまでは想像は出来なかった。このウィルスと共存することになった現在を、作家はどう見るのか。今を20歳前後の、まだ若い大人として生きているバラカは、何を感じどう行動するのか。
   見てみたい気もする。
 この小説に描かれた現象のいくつかは幸い絵空事ですんだが、少なくとも政治が真実を話さない、ということは、今の我々にとって、当時よりもかなりリアルな現実になっている。

コロナで多忙…

 真冬の12月頃はどうだろうね。このまま納まってくれればいいけどね。といっていたのは10月頃かな。ここにきて感染者数は大幅に増加。っていうけど、感染者数を比較している月と今と、検査の分母はどうなの?違いはないの?実数じゃなく、人口10万人当たり、とか、ベースをそろえて比較しないと「数字のトリック」みたいにならないか?

 マスコミさんは、その方が商売になると思って、「こりゃたいへんだ」と世間が思うだろうと思う数字を出して、それに同調するコメント屋を呼んで叫ばせて、どーすんだ、どーすんだ、おかしーじゃないかー!と正義ぶって詰問して、結局は与党政治家の発言の逆張りしていれば「世間は喜んでチャンネルを合わせる」と思っている。それが彼らのビジネスモデルで、それをいうと、第2次大戦の前に政治や軍部に迎合してバカな戦争を推し進める一翼を担ってしまった苦い経験から~、というけど、政策を多視点で分析し、是々非々で批評をするならともかく、「イエスマン」から「何でも反対屋」になっただけなら本当に頭が悪いと思う。

 

 大昔の話だが、「あこがれのテレビ局」でバイトしていた友人が、上層部は有名人や金持ちの二世とかのコネ入社ばかりで、実際に現場にいるのは下請けだけ。コネ入社組のえらいさんは有名芸能人とかにまとわりついてチャラチャラしているだけだ。といって嘆いて見せた。

 こちらからすると、東京の大手のテレビ局にバイトでもぐりこんで、なんとかそれを足がかりにあこがれだった職業に、と夢ににじり寄ろうとしていた友人にうらやましさを感じていただけに、世の中そんなものなのかな、と気の毒に思ったりした。

 その友人に誘われて、深夜にテレビ局にもぐりこんで、局内をうろついた記憶がある。彼は夜の11時台にやっていたスポーツ系の報道番組のバイトだったので、入館証でも持っていたのかもしれないが、私はどうやって入れたんだろう。覚えてないのだが、知らん顔して「おはようございます」とかいいながら彼の後ろに付いて行ったんだと思う。局内では、倉庫のようなところに、スタジオのセットがばらされて置いてあるのを見た記憶があるから、彼が仕事で出入りする場所を案内してくれたんだろう。

 しばらくこそこそうろついて、仮眠室のようなところにいった。広い部屋に金属製の簡易ベッドがたくさんあって、2段ベッドになってた気もするが、それぞれに番号がついていた。彼に言わせると、深夜勤務のスタッフが仮眠するところらしく、予約してベッドの番号をもらうのだが、誰も来ないから大丈夫というので、その中のひとつにもぐりこんだんだ。ところが夜中に誰か来て、自分のベッドだというので「あ、間違いました」とかいって逃げた覚えがある。

 今はもっとセキュリティが厳しくなっているのだろうけど。

 話がそれまくっているが、コロナで忙しいのだ。何が忙しいかというと、コロナが感染者急増で人が集まったり移動したりが自粛気味になってくると、とたんに商売に支障が起こるので、その対応で忙しいのだ。通常の業務にのっかってきて、かつ早期に確実に処理しないとトラブルの元になるから、コロナ優先で、その結果、通常業務に支障がでてくるから、その処理で、としっちゃかめっちゃかになる。けど、それをやっても儲かるわけではない。返金だのなんだの、儲からないことを必死にやっているのだ。

 コロナについては世間も一度経験しているので、致死率100%の殺人ウィルスのような反応をする人もおらず、「昨今のコロナの事情で」といえばそれ以上の説明もいらないので春先よりは楽ではある。パニックになってるような人はいない。それなりに知識の補充もできたのだと思う。

 専門家の発言に対する反応も多少は賢くなれたかもしれない。感染の専門家や救急医療の専門家は、専門家なんだから、専門領域しかしらないし、偏りがあるのは当然なので「ある視点」にすぎないのだから、そう思って聞いてあげないといけない。

 感染をゼロに!をテーマにすれば、この冬、風邪気味で熱があるんです、鼻水出てます、くしゃみでます、っていう人を一人も出さない、というミッションにして、だれひとり、3か月間家から一歩も出るな、買い物にも行くな、配達もだめだ、人と会うな、しゃべるな、家を出たら殺す、と厳命すればいいことで、おかげで風邪ひく人間はゼロだったけど、なぜか全員餓死してしまった。バカじゃないのか、ここまでして風邪の感染をとめてやったのに。恩知らずな国民どもめ、ってなってしまう。ここいらのバランスに正解はない。誰かが失敗のリスクを負って決めなければならないことだ。その場合、リスクを負わない立場の者は、どうふるまうのか。リスクを負いながら意思決定する側に、どういう情報提供をするのか、どういう助言ができるのか。そのための議論を国会に求めているのだが、見守る国民の方も、声が大きい人ほど、右だ、左だ、でけなし合いを続けている。

 専門家の中でも、専門領域の知識や経験に加えて政治的なスタンスが左右明確な人の発言は、その政治的なスタンスに近い人と遠い人の間で批判合戦になりもする。その辺、看板や名刺に書いてあるわけではないので、バックボーンを知らないと、我々は、その人の政治的な好みでバイアスがかかった情報を鵜呑みにしてしまうことになる。

 

 結局は自分で情報を集めて、自分で考えないといけないってことなのだが。

クリスマスから年末年始、街の風景がどうなるのか。御堂筋は例年通り、美しくライトアップされている。空気を忖度して意味のない自粛をしないのはいいと思うが、そんな電球に使う金があるんやったら、わしらにカネ回せ、って思う人もいると思う。難題であることに変わりはない。

ドラマ「姉ちゃんの恋人」に癒されてしまう。

 見てしまうなぁ。完全に癒しの時間になっている。有村架純小池栄子はもちろん、登場人物が皆かわいらしい善人で、微妙にイタイのだけど、今日の放送で「イタくたっていいじゃないですか。大人だってはしゃいだっていいじゃないですか」みたいなことを有村架純にいわれてしまって、そう意図して作っているのなら、これはもうファンタジーとして見るべきだし、ファンタジーの主人公に有村架純がドはまりしているし、小池栄子が楽しそうについていってるし。藤木直人も、この世界観のなかなら年齢不相応な行動も発言も許容されてしまって、皆さん楽しそうだ。

 唯一林遣都の過去と母親の和久井映見の苦悩がアクセントだけど。

 

 有村架純さん、「あまちゃん」が評判だというのでちらっと見たときに「誰これ(ハート!)」と思ってしまった。まさに我々の世代のアイドルがそこにいた。聖子ちゃんカットにしていた有村架純は、まんま、我々がなじんだ第一形態の松田聖子の上位互換だった。

 そうなのだ。「あまちゃん」は、私にとっては有村架純と美保純だった。

 って、話ではなかった。

 

 その有村架純さん。「中学聖日記」のときは、「行くな」「なんでや」「ほっといたらええねん」と画面の有村氏を叱責しながら見ていて家族に「文句言うなら見るな」とあきれられたのだが、今回は、苦労人で賢そうで、今のところ安心だ。

 というわけで、けっこういい年の役者さんたちが、それこそ中学生のような恋バナを真摯に演じていて、このイタい世界観を、浮世離れしたファンタジーに見せている。こちらも大人があえて演じてくれているファンタジーに、しばらくは、歳を忘れて浸ろうと思う。というか浸りたい。

 なんか最近ドラマばっかり見てる。Tverで自分の都合で見られるからかな。

テレ東の「共演NG」が面白くてしょうがないのだが

 テレビドラマの舞台裏、現在のテレビ界のあるある、50代という年代の共感。中井貴一といえば、鎌倉の古民家で小泉今日子と酔っぱらってやり合って、というドラマが面白かったが、本作での鈴木京香とのやりとりは、それを彷彿させる。

 ただ、中井貴一の奥さん役の山口紗弥加のお得意の危ない感じが、過剰というか、要るかなぁ、と思えるのだが、まだ物語は中盤なので、どうなるのかはわからない。

 でも、鈴木京香が飛ばしているので、山口紗弥加まではいらんのじゃないかなぁ、と思えてしまう。秋元康の企画なので、サービス精神というか、広げまくってたたみ損なうんじゃないかとも思えるが、毎週楽しんでいる。なのに視聴率はあんまり取れてないそうだ。なんでかなぁ。面白いのに。

リキパワーゴールド(米田薬品工業)を寝る前に飲んだら効いた気がする。

 会社の近くにたくさんあるダイコクドラッグで購入。キューピーコーワゴールドAのジェネリックで、成分構成は同じだが廉価に購入できる。

 滋養強壮を謳っている。無水カフェインが入っている。なので寝る前に飲むことは控えていたのだが、先日、あまりにだるいので、寝る前に1錠飲んでみた。最近寝付きも悪い。四六時中眠い。職場で昼食後も眠いし、帰宅時の地下鉄など気を失ったように寝落ちしてしまうことも多い。

 で、リキパワーゴールドである。寝る前に飲んで、翌朝4時半くらいに、びしっと目が覚めた。びしっという感じで、布団を蹴とばしてぐんと起き上がったが、時間を見てまた布団に入る。なんだかすごく熟睡感があって、「すっきりした目覚め」だった。

 結局2度寝して起きたのは6時半だったが、5時前から90分程度の2度寝の時間も、うつらうつらではなく、ぐっすり感があった。

 これがこの薬の効能なのだろうか。今までは、朝食後、出かける前に飲んでいたが、飲もうが、飲み忘れようが、特に変化も自覚できず、朝の通勤電車でも座れたら、うとうとしていたのだから、その実感具合はなかなかのものだった。

 とはいえ、カフェインも癖になると良くないようなので、適宜ほどほど、がよいようだ。

特急事故の対処としての即製ふんどしが意外に快適だった件

今週のお題「急に寒いやん」

 

女性の場合は「運休」で苦しむ方が多いと聞く。

男性の場合は、「特急」で苦しむ方が多いのではないだろうか。

私はたびたび「特急事故」を起こし、悲惨なエピソードをたくさん持っている。

 

「急に寒いやん」という朝は、事故率が増えるので要注意だ。

 

 さて、その日は休日出勤。「事故」の予感もなく、まもなく目的の駅に着く予定だったが、あと2駅、というところで何やら雲行きが怪しくなってきた。

 

 そこで、頭の中で到着後のシミュレーションをする。まず、開いたドアの真ん前にある階段をかけあがり左に。そこの「ブース」は休日の朝ということもあって空いていると予測した。

 駅に着いてからシミュレーション通りの導線で「ブース」に向かう。2つの「ブース」はどちらも空いていた。しかし、「ブース」内の環境が劣悪で使用を断念。その瞬間に特急事案は超特急事案に緊急度がアップした。このような「落胆」事案があると、なぜか緊急度があがる。心と体の不思議である。などと悠長に構える余裕はない。

 ならば、改札を出て右へ。短い階段を上り下りしたところにある、駅に隣接するビルの「ブース」を目指すことにした。その判断が、結果として悲惨な状況を招くのだが、今思えば、なぜこのとき隣接するビルの「ブース」に向かおうとしたのか。わざわざそこにいかなくても、「ブース」を出た真横に、多目的「ブース」があるのを知っていた。多目的「ブース」というのは、お笑い芸人の渡部某が使用して有名になったのと同じような「ブース」だ。そこにすぐに向かっていたら、あの惨事は起こらなかった。なぜそこに行こうと思わなかったのかとても不思議だ。が、事故が起こるときというのはそんなものなのだろう。慌てたゆえの判断ミスである。

 

 事故の詳細は省く。が、結果として事故は起こった。その結果、ズボンの中の「布」が一枚なくなった。「布」を求めてすぐ近くのコンビニに行ったが、足元を見ているのか「布」1枚が600円もする。600円あれば、私の通常の生活環境なら「布」を3枚は手に入れるだろう。迷った結果、そこでの調達は断念した。

 で、どうしたものか。このままにするか。なんだか頼りない。回らない頭を懸命に回す。

 そうして思いついたのが、ふんどしだった。これは居合をやる中で和服に親しみ、知識として知ったもので、実際には使ったことはない。けど、手ぬぐいと紐があればなんとかなる。

 幸い、休日出勤の早朝で回りには誰もいない。身近なところを探し、よれよれのタオルと荷造り用の紐を見つけた。タオルの端を輪にして紐を通す。輪にした部分はホチキスで止めた。そうしてタオルを尻の側に垂らし、腹の前で紐を結び、タオルは股間を通して結んだ紐にくぐらせる。いわゆる越中ふんどしである。実際に身に着けたのは初めてで、タオルなので股間は少々ごわごわするも、しばらく立ち歩いていると、これが案外快適だった。まずは締め付け感がなく、風通しがいいけど、布感はあって頼りなさは感じない。

 越中ふんどしは、クラシックパンツといわれたりもするそうだが、以前から部屋着や寝衣として注目されていて、特に女子用がデパートで専用の売り場ができるほど人気だと聞く。ファッション性もさることながら、締め付けない、とか、蒸れないとかで、健康にもいいのだそうだ。

 「ほんまかいな」と思われたなら、一度、お手元の古いタオル、というか、和風の手ぬぐいか綿のさらしのような布がいいのだが、なければタオルと、紐を一本用意して、即製ふんどしで過ごしてみることをお薦めする。

 季節は冬に向かっているが、今のうちに体験して抵抗をなくすと、来夏あたりには手放せないルームウェアになっているかもしれない。いやいや、ふんどし一丁で部屋にいるというのではなく、ふんどしに浴衣の組み合わせを部屋着にすると、風通しがよく涼やかに過ごせるのではないかという想像だ。実際、ステイホームしていた今夏は家で浴衣ですごすことも多かったが、Tシャツのように体に密着せず、腰紐1本でゆるゆる着れるので快適だった。ただ袂が何かにつけ邪魔なので襷がけは欠かせなかった。襷は肩甲骨を開いたり、背筋が伸びたりという効果もあるようなので、健康にもよさそうだ。昔の日本人の知恵だ。

 

 冬の入り口に差し掛かったこの時期、久しぶりの特急事故から、来年の夏への想像が広がった。クリスマス時期はどうなるんや、正月休み頃にはまた感染急増とかになるのでは?と目先の不安に追い回される日々だが、次の季節の想像をすることで、少し呼吸が楽になったような気分になった。

 特急事故ネタでようここまで話もってくるな、と我ながら思う。

 直接の原因は、朝食のバナナかな。

 

読書メモ 氷属性男子とクールな同僚女子

この漫画と出会ったのは、たぶん、インスタグラムのCMだったんじゃないかな。

けっこうはまってしまった。まず、登場人物の顔がいい。クールというだけあって、過分な芝居をさせないのがいい。物語というより小さいエピソード集なのがいい。主人公が、シャイでジェントルで微笑ましいのがいい。昂ると関西弁になるのが個人的にはとてもいい。ヒロインのあたたかくやさしいのにクールで感情の表現が控えめなのがほどよくいい。

 短いエピソードで何度も読み返せるのがいい。

 なのに主人公は雪女の末裔で、ほかにも妖狐の末裔とかが普通に机を並べて会社員をやっている。 そういう世界のお話なのである。

 

 それにしても、無料でスマホで読めるのに、単行本を買う人が多くいるらしいのはなぜか。

やはりネット時代とはいえ、本の方が手軽でよいのか、所有欲を満たすのか。

 単行本にはオリジナルのエピソードが収録されているということだが。

 紙の本はやはりなくならないのかもしれない。

読書メモ 時刻表2万キロ 宮脇俊三 河出文庫 1980.6

 本屋に行って、ぶらぶらと棚を見る。あぁ、こんな本があるのか、あの本が文庫になったのか、と発見する楽しみがある。今日はそれでえらく懐かしい本と再会した。

 

 「時刻表2万キロ」宮脇俊三 河出文庫 1980

 

 この表紙の絵。40年前、この絵に惹かれた。この絵を見て、この本を買い、鉄道旅にあこがれた。

 そもそも、学生時代は時間はあってもお金がないので、旅に出るといえば、鉄道、それも鈍行しかなかったのだ。それに当時は周遊券というものがあって、エリア内なら普通列車が乗り放題だった。

 今は「青春18きっぷ」が普通列車乗り放題として販売されているが、当時のたとえば北海道ワイド周遊券は使い勝手が大きかった。特に冬場は特急や急行でも自由席なら乗り放題になり、広大な北海道を鉄道を使って縦横に走り回れた。

 

 この時代は、国鉄が「いい旅チャレンジ20000キロ」というキャンペーンをはっていて、国鉄全線乗りつぶしにチャレンジする若者が多くいた。「時刻表2万キロ」はそういう人たちのバイブルみたいな本だった。

 で、その当時、この企画に沿ったテレビ番組もあり、そのエンディングテーマが耳に残っている。いまネットで検索したら、その詳細がわかる。日曜の10:30から放送されていたらしい。下宿で目覚めて、ベッドの上でボーっとしながら、あるいは朝食ともいえないスナック菓子を牛乳で流し込みながら見ていた記憶があったが、日曜の10:30というならそんな感じだろう。耳に残っていたエンディングのテーマ曲もyoutubeで聞くことができた。

 しかしネットはすごい。こんな40年前のかすかな記憶も、正確なデータとして提示してくれる。逆にいえば、うろ覚えのまま思い出話など書いてしまうと、簡単に誤りが指摘されてしまう怖さもあるのだが。

 

 そんな40年も前の文庫本が、重版されてピカピカの状態で書店の店頭でキャンペーンされていた。何があったんだろう。今でも商売になるくらい売れると出版社が判断したということだろうが、鉄道旅が流行るような動向があるのだろうか。

 思わず手にしてしげしげと眺める。当時と全く同じイラストだ。

 

 私自身は、時刻表を「読む」趣味には至らず、路線や特急の名前、電車の型番とか、マニアックなところにはまったくはまらず、ただひたすら、電車に乗って、ボーっと車窓を眺め、文庫のミステリーなどを読むだけのソフトな乗り鉄だった。

 そうなのだ。鉄道が好き、というより、貧乏学生の分際で遠くへの長旅を楽しもうとすれば、鈍行列車の旅しか選択肢がなかったのである。

 

 書店から帰ってきて、家の書棚を探してみたら、40年前に買った「時刻表2万キロ」があった。表紙の色はまだ褪せてなく、そのイラストを見た瞬間、そこはかとない旅情が沸き立ってくる。遠くへ行きたい、という衝動が生まれる。

 コロナで毎年夏の18きっぷ旅も今年は自粛した。春休みの時期にはいけるだろうか。