時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

100均の修理キットで通勤用ママチャリのパンクを修理した話・続報

 あれから9日。通勤用ママチャリのタイヤはいまだにキンキンだ。どうやら、リムテープのへたりが原因だったようだ。100均のビニルテープで2周巻いただけだが、それがいまのところ効いてると思っていいんじゃないだろうか。その前は1か月で3回パンクしてたのだから、ありがたい。

 それにしても、たぶん自転車屋生活50年は経っていそうなおっちゃんが見逃した原因を見つけて対処したぞ。これはすごくないか?と自画自賛する。

 少なくとも、パンク修理代、900円浮いた。ただ、目からうろこのIチューブを使う必要がなくなってしまった。賞味期限があるわけじゃないので保管しておいて、そのうちリムテープ代わりのビニルテープがへたってチューブに大穴が開いたら使うことにしよう。

 今回は、自転車屋のおっちゃんの見事な手際を立て続けに3回見たおかげで、なんとなく手順を覚えることができた。おっちゃん、ありがとう!またよろしく!

 なお、余談だが、今回は長年使っていた空気入れも口金が壊れてしまったので、買いなおした。ホームセンターで980円の安物だが、けっこうキンキンに空気が入る。以前のものは口金あたりから空気が漏れていたのだろうか、いくらいれても、キンキンにはならなかった。空気入れもへたってたんだろうな。安くていいので、へたったらこまめに買い替えた方がいいようだ。

2020 今年、本物の海をやっと見た 南紀白浜 千畳敷・三段壁

 

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 父の会社の保養所があったこともあり、小学生の頃から白良浜の海水浴は定番の夏の行事だった。父が土日を若い部下たちのために遠慮したため、僕たちが使うのは平日だったので、父は来なかった。うちと親戚の2~3家族による合同の夏の旅行だったが、どの家族も父親が参加していなかった。そういう時代だったのだろう。

 しかしそんなことはなんの問題でもなく、普段会えない年齢の近い親戚のこどもたちとの海水浴旅行は、ひたすら楽しいだけのエキサイティングな日々だった。

 そういう「こどもの世界」も、誰かが中学生になると少しづつ足を洗う子がでてきて、いつのまにか解散してしまう。それだけ「小学生時代」というのは人生において特殊で貴重な時代なのだろう。

 そのうち僕自身も足を洗う時が来て、その保養所は、中学高校時代に使うことはなかった。大学生の時に、一度だけ、大学の仲間たちと使った。

 そこからまた縁遠くなり、結婚してからまた嫁や友人と毎年訪れるようになった。そして子供ができ、幼い子供たちを連れて夏の海に遊んだが、しばらくして父が引退し、保養所とは縁が切れる。しかしその後もホテルを使って白浜には毎年行った。

 というわけで、海水浴はしなくなっても夏には海を見に行くのが定番だ。南紀の豪快な黒潮の海を眺めるのはとても大事な行事になっている。

 コロナで外出自粛を余儀なくされた2020年だが、10月も半ばになってようやく今年の南紀ツアーを実現できた。

 黒潮は、やはり広大で豪快だ。ジョージ秋山の「浮浪雲」という漫画で、細君のカメ女が旦那の雲に、息子の教育にもっと関心を持ってくれ、と愚痴ったとき、雲が「海を見に連れて行ってますけど」みたいなことをいうシーンがあった。そうだな。海を見るって、そういうことだな、と海を見て思う。だから子供たちと毎年海を見に行く。

 

読書メモ 歴史認識とは何か~対立の構図を超えて~ 大沼保昭著 中公新書 2015.7

 Twitterは見るだけにしている。twitterを見てよかったのは、新聞やテレビのワイドショーやニュースショーとはことなる角度の意見を知ることができる点。左右でいえば右寄りの意見である。その視点は、案外素直に納得できるものが多く、いわゆるマスコミの論調というのが左寄り、であることや、読者・視聴者に一定の方向を印象付けるために、言葉の切り貼りや演出がかなりなされていることも知った。それらが行き過ぎると、「報道」ではなく「誘導」になってしまう。

 そういう点で、視点の異なる意見やモノの見方を同時に知ることに興味を持って、左右の両陣営の著名人をフォローしているのだが、そうすると、それぞれの陣営で大きい声を出す人と、その声に信者か太鼓持ちのように媚びてへつらうフォロワーと、また、その声に対してはすべて批判する人、論よりも人物を誹謗中傷する人、が出てきて、口喧嘩、ならぬ文字喧嘩合戦が繰り広げられる。

 たぶん面と向かえば声も出せない小心者でも、というかそういう人ほど辛辣に感情を吐いてしまえるんだと思うので際限がない。この「文字喧嘩」の世界では、それによって訴訟になったり、生き死ににもかかわってしまうような事件が起こっていて、もはや冗談では済まない。

 

 さて、私が見ているのは、主に政治に対するスタンスの左右をフォローしているので、どっちもどっち、とか、どっちともとれる、というものだけでなく、たとえば南京大虐殺はあったかなかったか、みたいに、個人の感情やモノの見方によらなくても、歴史的に検証できるんじゃないの、と思うことの論争も多い。戦時中だからそんなことも世界中の戦地ではあったでしょう。でもそんなに極端な数じゃないんじゃないの、とか、そうしろと命令してはいないのかもしれないけど、部隊が暴走してそんな事態が起こってることを上層部は知ってても、意に介さなかった、だってそれどころじゃないよ、戦争なんだし、しょうがないじゃんみたいなこともあったんじゃないの?と思う。

 中学生の頃、珍しく父親に連れられて「八甲田山」という映画を見たけど、どこまでも正しい高倉健と、しがらみに勝てず非業の死をとげる北大路欣也と、自身の見栄で部隊を全滅させたダメ上司の三国連太郎、を中心に、極限状態での組織や集団におけるさまざまな「人間の姿」が延々と描かれていた。

 

 だから、そんなことになってしまうから戦争はしちゃいけないんだよ、というのがたったひとつの正解だと思っている。

 

 そんなときに知ったのが「歴史認識とは何か~対立の構図を超えて~」という本だ。左右に寄らず、客観的に歴史を検証することと、どこに着目することで左右による解釈の違いが生まれるのか、ということにも触れている。初版が2015年なので、もう5年も前になる。こんな本が5年も前からあるのに、いまだに左右でバトルしてるってことは、これは、巨人と阪神どっちが好きか、みたいな話と同じなのかもしれない。

 ちなみに映画「八甲田山」ですが、名作です。そして、「高倉健」だけがいない「八甲田山」の世界は…、今いる会社がそんな感じですけど(泣)

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通勤用ママチャリのパンクを100均の修理キットで修理してみた件

 またパンクした。ここ1か月で4回目。近所で早朝からやってる自転車屋に持ち込んで、修理してもらってから出勤。その自転車屋は、おっちゃんが一人でやっていて修理専門。目の前が高校なので高校生の通学自転車の修理でそれなりに需要があるのかもしれない。出張修理もしているそうだ。

 というわけで、便利だけど、そうたびたびパンクしてもらっても困る。修理もタダじゃないし。900円だし。で、それなりに考えた。これはリムテープの劣化ではないか。夜は何ともないのに朝になるとぺっちゃんこになってたりするので、いたずらで針でも刺されたのではないか、と自転車屋のおっちゃんにに愚痴ってみたが、「穴開いてるの、内側やから」といわれたりした。ならやっぱりリムテープの劣化でチューブに傷がつきやすくなっているのかもしれない。

 

 もう1回900円払うのもなんだか嫌になってきて、自分で修理することにした。パンクの修理よりも、もうチューブを新品に変えよう。きっとチューブが弱ってるのだと思った。

 以前、クロスバイクのタイヤ交換やチューブ交換をしたことがある。なんとかなるやろう。たかがママチャリやん、と思ったが、実はクロスバイクと違って内装3段のママチャリは、後輪を外すのがかなり大変そうだ。ネットで調べもしたが、とてもできそうにない、したくない。で見つけたのが「I チューブ」。目からうろこ、コロンブスの卵、の大発明だ。チューブが円形ではなく棒状になっていて、タイヤを外さなくても取り換えることができる。つまりアルファベットのCの開いてるところをくっつけてタイヤに入れてしまうのだ。Cのように、タイヤの中でチューブの端っこ同士が離れてしまうと具合悪そうだけど。

 で、買ってきた。

 

 さて修理である。まずはタイヤをリムから外す。クロスバイクより硬いタイヤだが、タイヤレバー1本で案外簡単に外れた。チューブを引きずりだす。

 しかし、ここでまた持ち前の貧乏性が顔を出す。Iチューブを使うためには、今入っているチューブを鋏で切って取り外すわけだが、なんかそれも惜しくなって、洗面器に水をはってパンク個所を探したら、1か所、小さい穴を見つけた。やはりリムの側だ。リムテープを見てみると、テープはついているが、スポークを止めるねじ頭がくっきりと形を見せている状態。なので、リプテープの代わりにビニルテープを2重に巻いてみた。車輪を外さないので、輪っかになったリムテープは装着できない。テープ状のものを巻いていくしかない。ダイソーで3巻100円の19mmの絶縁用ビニルテープで、もともと入っていたものよりは幅があるが、ぐりぐりと2周させて押し込んだ。その後、買い置きの、これもダイソーのパンク修理キットを使って穴をふさぐ。チューブの穴の開いた部分を付属の紙やすりでこすってざらざらにして、ゴムのりを薄くつける。すぐに乾いてくるのて、乾いてから、ゴムパッチを貼り付けて、金づちでとんとん叩いた後、タイヤレバーを使ってぐりぐりとこすり圧着する。このあたりの手順は、おっちゃんの作業を短期間に3回見てるので、なんとなく要領がわかった。後はチューブとタイヤをはめるだけ。タイヤの中にチューブを入れて、タイヤをリムにはめていく。これもyoutubeで検索したら出てくるオーソドックスな方法で意外に簡単にはまった。硬くて手こずるかなと思ったが、最後の1か所にタイヤレバーを使った以外は手で入った。

 さて、成果はどうだったか。一晩経って朝、タイヤはキンキンに空気が入っている。無事に出勤。最寄り駅の駐輪場に停めておく。問題は帰りだ。朝はなんともなかったのに、帰りに乗ろうと思ったら空気が抜けている、ということが過去も何度かあった。冷や冷やものだったが、幸い無事。指でタイヤを押してみたが、朝の感触と変わらない気がする。今回のパンクは、朝、同じようにしてタイヤを指で押したときに、ちょっと前の晩より柔らかくなってる気がするなぁ、と思ったがそのまま乗っていき、駐輪場に停めて、夜、乗ろうとしたらべっちゃんこになっていた、という経緯だ。

 なので、まだまだ安心はできないが、まずはなんとか一昼夜はもったということ。

 パンクの修理も、100均グッズで案外できてしまうものだ。

 子供の通学自転車も、次からは自分で修理しようと思う。もちろん、おっちゃんがやったら10分ほどで修理してしまうが、素人の私は今回なんやかやで1時間以上かかっている。

 まだまだ修行は足りないようだ。

王将になってしまうなぁ。特に京都王将。

 昔々の話ですが、京都で下宿をしながら大学生をやっていました。当時はいわゆる下宿屋で、風呂なし、便所共同、コンロは10分10円とかのコイン式でした。電話は玄関先にピンクの公衆電話があるのみ。SNSはもちろん、携帯電話などSFの話で、友人の連絡方法も、下宿生なら電話もないので直接会いに行くか、その時間に立ち回ってそうなところを予測して探すか、今から思えば実に非効率ですが、当時はそれが当たり前でした。

 

 大学内には複数の食堂がありました。一部が夜も開いていて、下宿生はそこで安い夕食をとることができますが、やはり飽きてくる。私の下宿のあるあたりの商店街は、大学生と東映の大部屋の俳優さんを対象にした安い食堂がいくつもありましたので、下宿生たちは、学食とそういう安い食堂を使い分けて利用していました。

 そんな折です。校門の前で、王将が「餃子のタダ券」を配りはじめました。それも割引券1枚とかではなく、何枚かが冊子になったもので、回数券みたいな感じです。1枚で餃子1人前が無料。それが何枚綴られていたのか忘れましたが、ミシン目から切り取って使うのでした。

 スマホはなくても「タダ券配ってる」という情報は、どういう方法だったのか忘れましたが、たちどころに学生の間でシェアされ、正門でもらい、裏門でもらい、また正門に回ったりして、タダ券を集めました。

 その後は、タダ券を持って王将に行き、焼き飯やラーメンなど単品を頼んで、餃子はタダ券で、というパターンが増えていきました。

 下宿の傍の王将は、大学生のお客がほとんどだったんではないかと思いますが、「学生セット」なるオリジナルメニューがあって、大皿に、焼き飯一人前、焼きそば一人前、唐揚げ、だったかな、あたりが乗っていて、体育会系の学生に評判でした。私は体も小さく食も細かったので、見ているだけでおなかがいっぱいになるようなメニューでした。

 そんな感じで徐々に王将へ行く頻度が高まり、ピーク時は週に3回は行ってたと思います。

 とにかく、安くて腹いっぱいになる、というのが最大の魅力でした。最近閉店するということで話題になっていましたが、30分皿洗いしたら飯代タダ、みたいなことも、貧乏学生相手と思えば、当時の京都だとありうる話です。京都は学生にはすごく寛大でしたので。お金がなくても「出世払いでええ。しっかり勉強して、偉い人になって、返してくれたらええから」というようなところがありました。

 さて、王将ですが、そんなこんなで学生時代には本当に世話になりました。で、4年間で「王将の餃子」じゃないとだめで、定期的に「王将の餃子」が無性に食べたくなる、という刷り込みをされてしまったのです。舌への刷り込みですね。

 その後、社会人になって、さらにいい歳になって、食べる量は減ってきましたが、やはり今でも王将は外食の第一選択になってます。はい。昨日も行きました。当時と比べればファミリー客や女性客も増え、かなりあか抜けてしまってますが、やはり「餃子の王将」は私のなかでは永遠に不滅です。

「土下座~」からいきなり斬りつけるって、そんなんあり?な居合の話

無双直伝英信流 奥伝立業の最後の業「暇乞(いとまごい)」

 奥伝立業の部の最後に入っているのだが、正座から始まる。

 暇乞いなので、お別れのあいさつであって、「詫びろ!詫びろ!詫びろ!」からの土下座ではないが、正座して手をついて頭を下げるという動作は土下座と同じ。

 そしてこの暇乞いには、3つのパターンがある。その1は、正座して、指の先を床に着く浅いお辞儀。その2は、手のひらを床に着くお辞儀、その3は、床に平伏するまさに土下座。その体制からいきなり腰に差した刀を縦に抜き、斬り下ろす。上意討ちの業だといわれている。事情はどうあれ暗殺の業だ。しかしここにも疑問はある。お世話になりました。さようなら。と礼儀正しく手をついて暇乞いをするときに、大刀は腰に差したままか?仮に差しているとしたら脇差だろうし、脇差ならこの業もやりやすいのかもしれないが、動きはまったく違うものになるだろう。

 しかし現在の居合では、大刀を腰に差して演武する。土下座の体制から大刀を抜くのは結構難しい。というか相当に難しい。

 武術的にいうと、おこりを見せない、ということが大事になるだろう。相手に動きを悟らせない、ということなので、斬りつけようとしていることがばれてはいけない。肩が先に動いたりせずに動作しないといけない。その上で、平伏した状態から上体を起こしつつ刀身を縦に抜き斬り下ろす。その1の場合は、指先が着く程度なので、上体はほぼ起きている。少し目線を上げる程度で相手も見える。その2では、手のひらを着くので、上体は下がってくる。かなり上目使いをしないと相手は見えない。その3は、平伏しているので床しか見えないわけだから、徐々に上体を起こしながら同時に抜き斬り下ろす。上体を起こしてしまってから抜いていては相手に逃げられるだろう。それもただ鞘から刀を抜くのではなく、振りかぶって斬り下ろすわけだから、すらりと抜いただけではだめで、スパッと斬ってしまわないといけない。これを正面から見ていたら、手元が動いて、あれっ、柄に手をかけた?と思ったらヒュンと切っ先が飛んできた、という感じになる。物理的スピードではなく、マジシャンの使うトリックのような意表をつかれて感じるスピード、といった方がいいのかもしれない。トリッキーだがタネも仕掛けもなく、あるのは技術のみ。

 それにしても、この業をびしっと決めることができる居合道家はどのくらいいるんだろう。

 私はもちろんできない。道場で暇乞いを稽古するときも、お辞儀をしたら鯉口が緩んだ刀が鞘からすべりだしたりするので、ほとんどコントである。とはいえ、笑ってはもらえず、「まずは鞘の手入れをして来い」と怒られたりしたものだ。

 居合道。単純に見えて、奥が深い。

「運動不足」に、お部屋で日本刀を振ってみません? 居合のススメ

今週のお題「運動不足」

 日本刀を振ってみませんか?と書いてみたものの,おススメしている当の本人が、緊急事態宣言以降、もう長らく稽古にもいっていないので、どうにも説得力がない。しかも、居合を始めた動機が、基本的に一人で行う型稽古で、面積としては畳一枚のスペースでできるから、競技スポーツのように、場所を借りたり、人を集める必要がない、というものなので、稽古に行けないのなら、家で居業の稽古でもすればいいのだが、まったくやっていないのはいかがなものか。と心苦しく思いながら、ここでは過去の経験を踏まえて、チャンバラや武道的なものが好きだったり、昨今日本刀に興味を持ったりした方に向けて、おススメを書いてみたいと思う。それに居合なら複数名で行っても自然にソーシャル・ディスタンスが保ててコロナの時代に合っている。密になると刀が当たって危ないから自然に離れる。

 

 さて「居合」と書いたが、ここでは型稽古を取り上げる。たとえば、居合の流派のひとつである無双直伝英信流では、初伝という正座をしている状態から始める業が10本ある。大刀を腰に差した状態で正座し、そこから正面を斬る、右方を斬る、立ち上がって斬る、などのバリエーションがある。

 それを、声も出さず黙々とやる。声を出さないのは、「敵に悟られないように」するため。なので、大勢で稽古していても、静かなものだ。袴の衣擦れの音と、ヒュンという刃が空を切るときの風切り音しかしない。

 では動作はどういうものか。居合の基本といわれる初伝の「前」の動作を簡潔に文章化するなら、正座の状態から片膝を立てつつ水平に抜き付け、そのまま振りかぶって縦に切り下し、刀を頭上で半回転させながら立ち上がって、納刀する、となる。刀を頭上で半回転させる動作を血振いといい、刃についた血を振り落とすのだという。本当に血を振り落とせるかどうかはわからないが、切り下しから納刀に至る間の一拍、残心を伴う動作だと思っている。この一連を終えるのにおよそ20秒。

 使う刀は、居合練習用の模擬刀(合金製で刃がついていない刀)で、初心者や女性用など軽いものもあるが、多くは800~900グラム程度ではないだろうか。私の知人で1.2キログラムほどある胴田貫を振り回していた猛者がいたが、肘を痛めて辛そうだった。

 さて、書いた通り、正座から刀を水平に、次いで垂直に、合計2回振るだけの動作が何の運動になるんだ、と思うのだが、これが不思議で、この「前」だけでも、3回、4回と繰り返すと、夏場だと汗ばんでくるし、冬場だと身体が温まってくる。有酸素運動無酸素運動か、といえば、大きくゆっくり呼吸をするので、有酸素運動に入るのではないだろうか。アニメの「ルパン三世」に出てくる五右衛門のように、眼にも見えないスピードで刀を振ることはない。そもそも出来ない。どっちかというと、静かにゆっくりと動く。とはいえ、刃先までゆっくり動いては斬れないだろうから、そこは鋭く抜き付けないといけない。そうするためには刀を持つ右腕だけではなく、対となる左腕、膝、腰、肩甲骨など全身の各部署を同時に軽く動かさなくてはならない。右腕の腕力だけではスムースに刀を振ることができない。逆に言えば、正座という窮屈で動きにくい体制からいきなり刀を抜き付けようと思えば、全身をバランスよく使えなければスムースに動けない。そこいらを意識してやっていくとじわじわと体に来る運動になる。重要なのは、腕力に頼らないことで、身体の操作と刀の操作で速さを求めるようにしたい。

 この、居合の型に関しての解釈は複雑だ。江戸の時代から400年もの間継承されてきた業なのである。この業が生まれた当初は、刀を用いた斬り合いが実際に行われており、この業を修行することは、端的に斬り合いに勝ち生き残ることが目的とされていたのである。

 であればその型のひとつひとつについて、「なぜそう動くのか」「そう動くことで何を鍛錬しているのか」については、明確な根拠と目的があったはずである。よく居合の道場で教えられるような、敵がここにいて、こうしてくるから、こちらはこうする、という動作の想定だけで語られるのは一面的に過ぎるのではないか、と思うが、そこについては多事争論で、居合の世界の一種独特な側面に触れることになるので稿を改めることとする。

 

 居合について、かつて所属していた道場の館長のことばが面白く、かつ、私としてはあまり他で聞いたことがない解釈なので、紹介して締めくくりたい。

 館長がおっしゃるには、「居合はメンタルを鍛えるのに最適」なのだそうだ。日本国において「道」とつけば、精神修養のため、といわれることは多いので、そういう精神論かと思ったら…。

 

「居合の型をやっていて何か感じることはないか。実は居合の型はすべて、相手をやっつけた瞬間を演武している。後の先、つまり、敵の害意や攻撃をかわして逆転勝ちした瞬間ばかりを演武している。型を演武することで、頭の中に「勝つイメージ」「勝ったイメージ」が残っていく。そのことで「自分は勝てるというポジティブな思考」が定着していくのだ」

 

 確かに、そういう視点で見れば、居合の型というのは、「攻撃してくる敵に対して、必殺技をお見舞いし、かっこよく一撃でやっつけた場面」を演じている。型を稽古する際に、演技者としての気持ちを込めることができれば、気持ちよく敵に勝つというイメージトレーニングになるかもしれない。自由人で、小説を書いたり腹話術をやったりと多芸多才、何かとユニークだった館長のこの発想は、居合を楽しむひとつのアイデアかもしれない。

「おカネの切れ目が恋のはじまり」が面白い。

 比較する必要はないのだが、ちょっと前にやっていた「私の家政婦ナギサさん」の登場人物は、あるある、いるいる、というリアリティを楽しめた。

 カネ恋の登場人物は、普通ちょっといないだろう、というデフォルメされたキャラなのでリアリティからは遠いのだが、「ありえない」と思いつつも、それぞれのキャラクターをそのまま受け入れてしまえるドラマになっている。このありえさそうなキャラたちを、観客として受容してしまえるのは、演技の力なのか、脚本なのか、演出なのか、すべてなのか。

 

 演技といえば、このドラマに漫才師の方がちょい役で出ているのだが、その一人が、事務所の中で、あれ?いませんか?さっきいたのになぁ、という風に回りを見渡す、というシーンがあったのだが、その時に驚いたのが、たしかに、人を探して周りを見渡しているのに、画面に映っている眼が何も見ていないのだ。

 これは決してその漫才師の方の演技力をディスっているのではなく、プロの俳優さんの技術への驚きだ。

たぶん、「フロアを見渡して人を探す」という動作をしてみろといわれたら、誰もが同じように動作するだろう。でも、カメラに映されると、見渡しているのに眼が何も見ていないと観客には「わかって」しまう。では、どのようにすれば、実際に探しているように見えるのだろう。これがわからない。気持ちの込め方?表情?目玉の動かし方?そもそも目力とかいうけど、眼ってそんなに意識して変化させられるものなのか。

 この回は、それぞれの登場人物の感情が激しく起伏する回で、カネ恋はドラマとして大きな転機を迎えるのだが、その感情の大きな振り幅をプロの俳優たちは違和感なく視聴者に伝えている。ありえない極端なキャラクターであるにもかかわらず、作り物感なく、彼や彼女の内面に起こっている感情の動きを見せてしまう。いったいどういう技術があるんだろう。若い俳優さんも多いのでトレーニングの年月だけではなさそうだ。やはり一種の生まれ持った才能なんだろうか。

 

 次が第4回で最終回となる。それにしても。わかりもしないことを想像や邪推でわかったかのように言いはしないが、それにしても、である。ただただ残念だ。

読書メモ キネマの神様 原田マハ 文春文庫

 山田洋二監督による映画化が決まっていて、主役は志村けんさんがキャスティングされていたのだが、新型コロナで入院となり降板。その発表の直後、志村さんは亡くなってしまう。「天才!志村どうぶつ園」を長年毎週観ていたので、驚きは大きかった。

 映画は、志村さんの代役を沢田研二さんが引き受けて、撮影が続けられるということだ。

 さて、小説である。文庫の初版は2011年5月10日。そこから版を重ねて32刷が2020年の2月25日に刊行されている。その段階では、まだ新型コロナはそれほど身近ではなかった。2月の末ごろに話をした知人の医師も「流行り風邪だ」といっていた。文庫の帯には、「映画化決定」と書かれ、志村けんさん、菅田将暉さん、永野芽郁さん、宮本信子さんの写真が掲載されている。

 原田マハという作家のことは全く知らなかった。書店にいくとたくさんの文庫本が平で積まれていたので、売れっ子なんだな、と思ってはいた。お兄さんが原田宗典さんだということをWikipediaで知った。原田宗典さんの「スメル男」は傑作だ。

 さて、小説である。映画が大好きなのだが、ギャンブルで身を持ち崩している老人と、その娘で、同じく映画が大好きで、大手デベロッパーでバリバリ働くキャリアウーマンを主軸に、話は展開する。展開するといっても、派手な事件が起こるわけでもなく、限られたエリアで、限られた人たちが巻き起こすちょっとした出来事がつづられていく。ところがどうしても、映画化と新型コロナによる出来事とからまりながら読み進めるので、作者にとっては不本意なのかもしれないが、実際に読みながら「これ、映像にできるのだろうか」「このくだりを映画ではどうやって見せるのだろう」と余計なことを考えてしまう。そしてやはり、志村さんと沢田さんと、どっちがどうなのか、どっちだったらどうだったのか、いちいち映像を思い浮かべてしまう。志村さんは毎週テレビで見ていたが、沢田さんは、いつだったかコンサートをドタキャンしたとかがニュースになったときに、ワイドショーでその姿を久しぶりに見た。その時の風貌と偏屈ぶりなら、主人公の役ははまるんじゃないか、と思ったりした。

 さて、映画ではなく小説だ。映画について文章で表現するなら、この方法しかないかな、と思う。小説の中で取り上げられる映画も、ことさらマニアックなものではなく、誰でも見たことがあるような有名な映画だ。にもかかわらず、とてもスリリングなのである。何が?もちろんストーリーの展開が。でも突飛でもなんでもない。この設定でスリリングに展開させることができるのは、やはり作者の腕だろう。それも安心して読み進められるスリリングさだ。

 そして、当たり前だが、全編、ほとばしるような映画への愛にあふれているのだ。けど決してマニアくさくはない。映画は好きでも、マニアではなく、映画評を熱く語るわけでもなく、普通に娯楽として好きなだけだ、という人でも、ぜったいに置いてけぼりにはならない。実際に私がそうだった。

 読み終わって、映画が見たいなぁ、と思った。学生の頃は、いわゆる「名画座」はたくさんあった。繁華街にもあったし、郊外にもあった。郊外の名画座は3本立てで500円。館主が選ぶ3本を、6時間座りっぱなしで見るのだが、時間だけはある学生にはありがたかった。その映画館で、「駅」「約束」「旅の重さ」なんていう映画を見た。あまりにも渋いチョイスだ。

読書メモなのに、映画の話題になっているが「キネマの神様」の読後なのだからこれでいいのかもしれない。古い名作映画がやたらに見たくなる小説だ。

映画 コンフィデンスマンJP /追悼

コロナ鬱を解消しようと、久しぶりに映画館に行った。何も考えずに笑ってられそうな映画、ということで「コンフィデンスマンJP-プリンセス編ー」にした。

久しぶりに行った映画館は、平日の昼間だったが結構混んでいた。

映画館の中は、密を避けるべく、席の前後左右に人がいない。映画館にとっては残念なことなのだが、観客にとっては、特に一人客にとっては、これはありがたいことだった。一人客が、シネコンで席を予約していくと、周りは空席なのに、なぜか自分の前にだけ座高の高い人がいる、とか、隣にカップル客が座ってやたら飲み食いするとか、真後ろの席の人が足を組みなおすのか、前の席の背もたれに足をぶつけてくる、というような目に合うことがあるが、その可能性がないだけでも安心だ。

 さて、コンフィデンスマンJPである。実は、映画館で見るほどのものか、テレビで十分ではないか、と思ったりもしていたのだが、やはり映画館はいいですね。コロナ鬱がしっかり解消できた。のだが、詐欺師の映画で、製作陣が全力でだましに来ているのは観客なので、あまり感想を書くとネタバレになる。から感想がかけなくて映画評にならないが、大丈夫。興味がある人は安心して劇場へどうぞ。テレビシリーズや映画の前作を見ていなくてもまったく問題ありません。

 僕も、今回のプリンセス編が面白かったので、前作のロマンス編のDVDを借りてみた。

で、両方見てどうだった、とかいうと、これもネタバレになりかねないので、どちらも面白かった、とだけ言っておく。

 連続ドラマの放送から年月が経っているだろうに、テレビでゲストとして出ていた俳優が同じ役で出てくるのもこのシリーズの特徴で、それぞれの作品や出演者を大事にしている感じがにじんでいて心が温まる。まさにワンチーム。

 関わった人を大事にしている、という感覚が、このシリーズの特徴かもしれない。かつてのゲストの俳優が、同じ役でちょっとだけでてくるのを発見することで、観客も仲間に入れてもらっている気になれる。親近感がわく。

 なのに、そういうドラマに出ていた三浦春馬さんが亡くなった。演者や制作陣のショックはいかほどだったのか。二枚目な顔も情けない顔も演じ分けて楽しませていただいただけに、残念なことだと思う。

 三浦春馬さんの出演がかなわないのは残念だが、また第3弾で楽しませてもらいたい。コンフィデンスマンチームのさらなる活躍に期待しています。

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と書いたのは、ほんの1か月前の8月22日のことだ。

今朝、速報で、竹内結子さんの訃報を聞いた。自殺ではないか、ということだ。

8月22日に映画評を書いた動機は、「テレビでゲストとして出ていた俳優が同じ役で出てくるのもこのシリーズの特徴で、それぞれの作品や出演者を大事にしている感じがにじんでいて心が温まる。まさにワンチーム。

 関わった人を大事にしている、という感覚が、このシリーズの特徴かもしれない。」

と感じたからだ。そう感じた印象的なシーンが、竹内結子さん扮するスタアの登場の仕方だった。登場シーンの長さはほんの少々で、ちょっと顔を出した、という程度なのだが、ストーリー上の重要度は大きく、大事にされているなぁ、と強く感じた。

 なにより「自殺」なんてものがもっとも似合わないイメージの俳優さんだったのに。

すごく驚いた。

 無責任に憶測をいってもしょうがないのだが、もしコロナ鬱や産後鬱というような症状にわずかでも起因しているのであれば、対応する機関も方法もあるだけに、悔しさを感じる。

 この映画は、僕にとって、観客として仲間に入れてもらっていると感じることができた稀有な作品だけに、第3弾で再会できると信じていた仲間の死は、あまりにも残念でならない。