時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

微妙な気分でオリンピック 日本x南ア の試合を観戦しているのだが

 ソフトボールやサッカーの試合が始まった。それぞれ代表チーム同士の闘いで、テレビでの観戦を楽しんでいる。オリンピックだというのだが、まぁ、そういう主催とは関係なく、スポーツ観戦は常に楽しくエキサイティングだ。

 ニュースでは、開会式に携わるアーティストだか何だかがまた辞退したとかいっている。もうボロボロのご様子。こんなことで、式次第を数日でやり直すことはできるんだろうか。といっても、そもそもどういう構想だったかは誰も知らないので、使っている曲が、なんとかいう鬼畜暴力犯罪者の作った曲かどうかは、いわれなければわからない。だまって変えずに使うんじゃないか。

 コロナ禍に輪をかけるように、そんな胸糞の悪い状況なのだ、開会式を国威発揚というか、国威のひけらかし、みたいにしようとしないで、各国の代表数名で行進をして、開会のあいさつがあり、選手宣誓をして、解散!でいいのではないか。高校野球の開会式のようにすれば1時間ほどで終われるだろう。

 そんな中でも試合の観戦は楽しめる。ピッチや球場、試合の中にまで政治は入ってこれない。

 なので、オリンピックを楽しんでいる、という感覚は薄く、ただ試合観戦を楽しんでいる。試合と関係ない、別の思惑が強そうな開会式やセレモニーには、何の関心もわかない。

 まさかと思うが、日本の各選手に、「インタビューされたら開催していただいたことに感謝する、と言及するように」なんて言ってないだろうなぁ。

 仮に選手が素直な心でそういったとしても、それで、あきれるばかりの失政をすっかり忘れてしまったりはしないよ。総理大臣が言った「やめるのは簡単だ。我々はチャレンジを選んだ」という言葉の浅はかさと、その言葉を聞いたときに感じた憤怒も忘れないよ。そうやって戦争をはじめ、敗戦が明らかになっても「やめることができず」多くの市民を地獄に追いやったのは、ほんの70数年前のできごとだ。

 なんてことも思わずにはいられない、ややこしい気持ちで、後半戦の開始を待っている。

読書メモ 演劇入門~生きることは演じること~ 鴻上尚史 集英社新書 2021年6月

 劇団第三舞台の主宰、鴻上尚史さんの著書だが、タイトルが、どストレートに「演劇入門」。なので、演劇を観たり、作ったり、出演したり、という機会のない人には無用の本だ。なんてわけはない。万人の役に立つ、非常に優れたコミュニケーション論である。そして、マネジメント論であり、問題解決論でもある。

 もちろん、演劇論であり、演技に対するテクニカルなことも書かれている。それを知れば、演劇はもちろんのこと、普段何気なく見ているドラマや映画の見方も変わるだろう。それまでは、演技者が自分のキャラでセリフを言い、動作していると思っていたが、そこにはさまざまな経験とテクニックがあり、さらにそれを上回る「心の動き」をテクニックとして見せてくれているのだということがわかる。より深く役者さんの動きやセリフに注視するような見方になるのではないか。

 演劇に興味はなくても、ぜひ一読していただきたい名著である。

小山田圭吾 まじ吐き気 これで打ち止めか、まだ来るか?

 こいつが何者か知らんけど。やたら顔写真を見るようになった。顔が気持ち悪い。

どの写真も目が異様だ。そういえば、エンブレムのデザインパクったおっちゃん。うれしそうな満面の笑みで記者会見してたけど、あんなん前座も前座、超小物やったな。その後も出るわ出るわ、カスの見本市みたいになってきた。しかもだんだんひどくなってきた。テレビ局は、五輪がらみのカスの総選挙、やったらどうかな。金メダルは誰だ!

 

 けど、この気持ち悪い小山田は、大会で曲は使われなくても、作曲量は税金からたんまりもらったんだろうから、本人はなんとも思ってないだろう。あの気持ち悪い顔をゆがめて被害者意識丸出しで、緊急事態宣言下でも高い金払えば酒もお姉さんも出てくるような店で、世間を口汚くののしりながら、楽しく飲んでいることだろう。税金で。

 そう。気持ち悪い思いをしながらも、正義の心で非難の声をあげた世間の人が、経済的に困窮しながら自粛して家でじっとしている夜に。

 

 

 米子の高校野球の話題があった。試合ができるようになったらしい。これも大人の側の責任回避と保身のための「ブラック校則」みたいなおばかな話やけど、ひっくりかえって良かった。有名人も無名人もtwitterとかでいろいろ言ってたから、そういう声がくだらない大人の保身を打ち砕いたのだからこちらはとても痛快だ。

 ただ、こういう「声」は気まぐれだから、あまり頼ってもいけない。今回も、甲子園を目指す野球部、ではなく、あまり知られてないマイナーな競技だったらこんなに声が集まっただろうか。ないよね。

 

 五輪を中心に、いろいろな社会のアラが見えまくったので、「思えば、あれからいろいろ変わったよね。なんやかやいって、世界も多少はよくなりはしたよね。バカも一掃されたし、自分たちの声も届くことが分かったし」

 「少なくとも、選挙に行かない言い訳として『政治家なんて誰がなっても同じ』っていうのが間違いだってわかったしね」みたいになっていくんじゃないかな。

 

 って書いてたらテレビで白鳳の優勝のシーンが。奇襲?勝って雄たけび?プロレスやん。そう思えば、昔の横綱は格調高い存在やったんやなぁ。

無双直伝英信流 居合兵法 業名「信夫」その2

 居合は後の先。敵の害意を察知して、斬られる前に斬る護身術。居合の極意は鞘の内、つまりは抜かずして敵を制する。殺人剣ではなく活人剣であり、現代に居合を学ぶ意義は精神修養である。武士道を重んじるストイックな侍の心を学ぶのだ。

 まったくその通りで、現代に居合を学ぶ目的として非常に重要な心構えである。

 

 で、先述した「信夫」だが、居合の型も奥伝に入るととたんに想定が「暗殺」めいてくるのである。敵はこちらが刀の先で地面を叩いた音に反応するのだから、敵が刀を抜いてこちらを斬ろうと迫ってきているわけではないだろう。道の端に身をよけても気づかないくらいの暗がりだ。護身だと解釈するより、待ち伏せしてたと解釈する方が理解はしやすい。ただし、居合は想定がすべてではない。想定はあくまでも型を覚えやすくするための「状況設定」であって、その「設定」に対してどのように身体を、剣を使えばいいか、を練るのが、型を修練する目的だと考える。「信夫」であれば、刀を残したまま身体だけ気配なく横に移動する身体操作だろう。これがスムースに、かつ相手に悟られずにできればどういう場面で有効か。たとえば、それこそ対面する敵がいきなり上段から斬りかかってきたとするならば、相手の視線でいえば、目の前にいたはずの敵の姿がふっと消え、次の瞬間には両脛を斬り裂かれてしまうのだ。なんせ敵の刀はまだ腰の鞘に入っている状態だ。逃げた、と視覚でとらえても、敵の体が横に移動した瞬間に、腰の刀が抜けて、自分の正面で刃がひらめくところまでは追えないのではないか。

 奥伝だけあって、なかなかに単純ではなさそうなのである。

 

 ※以上、筆者の個人的な空想です。

無双直伝英信流 居合兵法 業名「信夫」

 無双直伝英信流には、初伝に11本、中伝に10本、奥伝の居業に8本、立業に11本、番外4本、それらに加えて、太刀打之位という仕太刀と打太刀の2人で行う組太刀の型が7本ある。この7本は17代宗家のまとめだといわれていて、古流としては、これとは構成が異なる10本が伝わっている。ほかにも座った状態からの組太刀である詰合之位などもある。多くの居合道場で主に稽古されているのは、奥の居業までの40本ではないだろうか。

 

 この業名が、なかなかかっこいい。日本刀のイラストと業名の漢字をあしらったTシャツなど作れば、この先、再び増えてくるであろう海外からの観光客に売れるのではないかなぁ。海外の人にとって、漢字は、そのデザインがかっこいいらしいのだ。なんとなくかっこいいから、と腕に「図書館」っていう入れ墨をいれた白人系の外国人をテレビで見たことがある。

 

 というところで、業名をランダムに、いくつか書き出してみる。

 

横雲 霞 稲妻 浮雲 八重垣 颪  四方切 信夫  岩浪 鱗返  袖摺返 追風 附込 

浪返 月影 瀧落 壁添  追風 迅雷 絶妙剣 独妙剣 ほかにもあるよ。

 

 業の動きを思い浮かべながら漢字を見ていたら、なるほど、業のイメージだけでなく、動きに関するちょっとしたヒントなんかも隠されているのかも、なんて考えてしまう。

 

 たとえば奥伝の立業である「信夫」。「しのぶ」と呼ぶのだが、想定は、暗闇の一本道で、前からやってくる敵に悟られぬよう、道の端に身を寄せながら、そっと抜いた刀の先で、地面を叩く。前から来る敵は闇夜で目が効かないから、音のした方向から敵が来ると思ってそこに斬りかかる。もちろんこちらはそれを予測しているので、道の端から躍り出て、空を斬ってたたらを踏んでいる敵を一撃で倒すのである。

 この「しのぶ」は、やはり「忍ぶ」だと思う。音もたてず、気配もさせず、そっと身を暗闇に潜ませるわけだ。逆に言えば、それができず、前からくる敵に存在を察知されてしまったら、敵側から見れば、歩いていたら、前から来た奴が急に道の端っこに身を寄せて、そっと刀を抜いたのだから、「狼藉者!」と叫んで、問答無用で斬りかかればよいのだ。

 だから「忍ぶ」だけれど、「忍」を業名にしたら、業名からトリックが見破られてしまう。なので「信夫」という意味の分からない漢字を当てたのではないか。仮にそうであるなら、この「忍」の業、たまたま一本道を歩いていたら前から敵が来た、というわけではなさそうだ。考えてみればそれほどの闇夜なら敵も提灯くらいは持っているのではないだろうか。とすると、たまたま行き会った、というより、その人物が、この時間にそこを通るのを知っていて、最初から道の端に身を潜めていたか。ならば…。

 

 ※以上、筆者の個人的な空想です。

死刑廃止を今こそ考えようなんて

 なんてことが新聞の社説に書いてあって、世界ではー、とか、冤罪がー、とか、人権がー、とか書いてあるのだが、そこで責めても世間の人の心は動かないだろう。死刑廃止論者が気づかないのは、世間の人にとって、日本の刑罰が緩すぎるってことだ。人を殺して懲役15年。法律が出来た明治時代は平均寿命が50年くらいだったようだが、50年の中の15年は「長い」。でも人生100人時代の15年は短い。人を殺したら最低でも25年。もっと残酷なことをしたら、死刑はないが終身刑。死ぬまで独房に入ってろ。それくらいのバーターがあれば、世論も納得して、死刑廃止を考えてもいいと思うかもしれない。だが、明治に出来た時代に合わない法律のままで、死刑だけ廃止したら、殺したもん勝ちやで。

 死刑の是非だけをいうのではなく、刑罰全体を他国と比較して見直していけばどうか。

それと、死刑の是非の議論をイデオロギー闘争の道具にしてはいけない。

ついに、ワクチン1回目(モデルナ)打ってきた。

 遅れてはいけないと思って会場にはかなり早く着いたのだが、とても空いていて、待たされることなく、着いた順番に受付をしてもらい、受付、問診、接種、15分の待機、済証発行、と一通り終わるのに30分程度の行程だった。何事もなくスムースに事が進む。看護師さんの問診コーナーの後、接種の段階で医師から、アレルギーの有無など、同じことを再確認されるが、まぁ、このくらいは、念には念を、ということで良いのではないか。医師も、問診しながら、顔色や様子を観察しているのだろう。

 注射自体は「ちょっとちくっとしますよ」と言われた通り、ちょっとちくっとした程度。

 ちょっと困ったのが15分の待機時間。スマホでもいじってればよかったのだろうが、みんな黙って座っているので、なんとなく黙って座っていたが、そうすると15分は長い。必然的に意識は注射された場所に集中してしまうので、じわっときた、とか、ずんときた、などと必要以上に過敏になってしまう。過度なビビりの人なら、ちょっとしんどいかもしれない。スマホは禁止じゃないから、せっせといじるとか、本や雑誌を持っていくなど15分といえども、気を紛らわせるものはあった方がいいかもしれない。

 副反応は、といえば、帰り道で、早々に、注射した側に「肩凝り」の症状が出た。が、しばらくするとなくなった。肩凝り症状がなくなったあとは、少し、じわっとする、というのか、重だるい、というのか、痛みではない違和感のようなものを感じる。が、それもじっとしていて感じることで、会話したり、気が紛れることをしていれば自然に忘れている程度のものだ。刺入部を押さえたり、腕を振ったりすれば鈍痛は感じるが、日常動作では何も感じることはない。

 そして12時間後、夜の10時。痛ーい。万歳するように腕をまっすぐ上に伸ばしたら痛ーい。けど発熱とか吐き気とかはないな。

映画 魔女見習いを探して

 娘は、幼稚園くらいの頃「おジャ魔女どれみ」が好きで毎週欠かさず見ていた。付き合いで見ていたが、けっこうはまって、日曜の朝の楽しみになった。シリーズは主人公が3年生の時にはじまり、6年生の卒業式が最終回の話題だった。

 映画は、放映20周年を記念した作品で、コロナ禍で封切が延期になるなど気の毒なことになっていた。娘は劇場に観に行ったが、評価は賛否両論あるらしい。おジャ魔女のファンとしてはもっとおジャ魔女の世界に浸りたかったし、おジャ魔女たちにも会いたかったようだ。娘もそういっていた。そういう点ではちょっと期待外れだったと。でも、映画としては面白かった、と。

 

 物語は、おジャ魔女たちの20年後、でも後日談でもなく、「おジャ魔女を見ていた女子たちの今」を描いたものだった。アラカンの私が論評する資格はないが、なかなかに笑わせ、ほろっとさせるいい話だった。

 

 登場機会は少ないながらも、おジャ魔女たちは、「想い出」という場所から要所要所で現れて、登場人物を励ましていく。

 

 20周年ということで、もっとおジャ魔女に会える、と期待して観たなら、たしかにそういう話ではなくがっかりするだろうが、がっかりした人も、改めて観てみれば、毎週日曜の朝、おジャ魔女を楽しみに観ていた自分たちのことを、映画の製作者たちが、本当に大事に思いながら、この映画を作った、ということがわかるはずだ。

 3歳の娘が、23歳になる。この長い時間をおジャ魔女たちは遠くから見守ってくれていた。そんな気にさせるかわいらしい映画だった。

 

映画 コーヒーが冷めないうちに

 有村架純さんを見たくてレンタル。小品ながら、なかなかの出来だった。いわゆるタイムスリップものだが、過去や未来に行って華々しい活劇を繰り広げる、なんてことはない。タイムスリップしたところで、行けるのは、その喫茶店の決まった席のみ。しかも、そこで何をしたところで、未来は変わらない。何も変えることはできない。それでも人は、心に空いた穴を埋めるために、その席で時間を彷徨う。たとえコーヒーが冷めるまでの、わずかな時間であっても。

 とても良いお話で、とても良い時間だった。芝居達者な脇役陣もすごくいい味を出していた。こういう映画もいいよね。というか、こういう映画がいいよね。

 

 でも伊藤健太郎君が出ているのを知らなくて、けっこう主要な役だったので、そこは興覚めだった。役者の世界も厳しいものだ。テレビや映画で見る姿は、演出された、演技というテクニックを駆使した姿だと頭ではわかっていても、ひき逃げもさることながら、若くして売れて調子に乗っちゃった様子が報道され、表情見てたらいかにも、って感じで、嫌悪感しかなかった。報道がどこまで本当かわからないが、こういう世界の人にとって、イメージは重要なんだねぇ。キャーキャー言われる快感と引き換えにしなければいけないものは大きいようだ。

 

大学3年生 20歳のワクチン接種体験 1回目/モデルナ

 大学での職域接種。

水曜日・初日:左肩に接種。症状は特に何もない。針で刺された痛みくらい。だそうだ。

木曜日・2日目:左腕が痛くなった。腕が上がらない。体側に腕をくっつけて、ひじから先を90度曲げるのがやっと。熱は出ない。痛いとはいってるが、動けない、とか、寝込んでいる、とか、顔をしかめているとか、特段辛そうな様子はない。体操をやっていて外科系の怪我は骨折含めいくつか体験しているので、痛みについては多少知っているからかもしれない。ソファに寝っ転がるときに左側を下にしたら痛くて寝転んでられないので右を下にしてる、とかいっていた。

金曜日・3日目:痛みはなくなったと。腕も上がっている。この3日間もなんやなかでいつもどおり、学校にもバイトにも出かけて行ったので、本人的には大したことはないのだろう。

 多少痛みが出ても2~3日で治まる、という話の通りの経過である。

 問題は2回目だが、次は熱が出たりするかも、という話なので要観察である。