時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

いきるための勉強って?

 うろ覚えなのだが、国語教育の題材が、詩や小説などの文学作品から、契約書などの実用文書に変わるというので、反対する人が元気よく発言しているのをネットで見た気がする。

 その後どうなったんだろう。
 情緒的には、なんだか寂しいというか色気のない話だと思って、最初は反対の気分だったが…。

 けど最近考えたのだ。

 義務教育である小中学校の教室に学生が30人いるとして、そのうち何人が、文学はじめ、学問で身を立てるのか。
 
 逆に、義務教育を終えて、社会の一員として生活していく中で、契約書はじめなんらかの実用文書に触れる人は、30人全員ではないか。

 生きていく、つまりは、社会の仕組みの中で、生活していく上で、大事なチカラはどちらなのか。

 少年期に優れた文学作品に出合い、人としての感性や人の見かた、人生の理解の仕方に影響を受けるのは大事なことだ。

 が、生活者としてリスクを減らすためのトレーニングもそれ以上に大事ではないか。

 そのことを、「国語」という教科の中で、文学作品の代わりに実用文を入れることで学ばせることには、議論が必要だとは思う。

 議論の結果、実用文の学習を国語ではやらないことにしたとしても、新たに「生活」とか「社会人基礎力」などという科目を設けて、学ばせる必要はあると思う。

 先日、うちの社会人1年生が、ショートメール詐欺にひっかかったり、マルチ商法にひっかかって高額な買い物をさせられたり、と、“教科書に載ってるような”初歩的な犯罪被害にあった。
 一人暮らしをはじめて間もなくのことで、浮かれていたのかもしれないが、それにしても、ものを知らなすぎる。

 大学時代は3年間コロナ禍で、人との出会いや行動範囲も限られており、外からの情報といっても、ネットやYoutube経由で自分の興味のある情報だけに限局されている。新聞もニュース番組も見ない。ドラマも見ない。
 よく話をしてみれば本当に何も知らない。世の中の表の仕組みも、裏のからくりも。

 そう思えば、くだらない、といいながらもワイドショーやそれに類するバラエティを見て、「いまどきこんなのに騙される奴がいるのか?」とか「いやいや、これはありえんやろ」とか言ってるのも、ある意味間接的な社会の疑似体験になってはいる。
 
 そういう「社会で生きていくにあたっての情報」は、それこそ義務教育で身に付けさせてあげるのがいいのではないか。
 アンガーマネジメントや、病気の仕組みや人体の仕組み、健康と栄養について、など。
植物の光合成を学ぶと同様に、人間が風邪を引いたらなんで鼻水が出るのか、寝不足したらなんで朝起きられないのか、とか。

 少なくとも必須にしてほしいのは、心身の健康と犯罪被害にあわないための個人でできる範囲のセキュリティの仕方。

 社会の仕組みや、落とし穴など半年で更新されてしまうので、教科書という形の教材は適さないが、警察や銀行、証券会社、消防、医療職、心理職などさまざまな実務家や専門職にお願いして、講演をしてもらえばいいのではないか。

 その上で、学問の道に進もうと思ったら、それ用の高校や大学に行けばいいし、高度に知的な手に職をつけたい、働いて稼いで自立したい、と思うなら、そうすればいい。

 大学無償化という政策も話題になるが、「学問する気もないが、Fランでも大学くらい出てないと就職先が」「高卒で働きたくないし」みたいな理由で大学に行く人の支援を税金で賄わなくても、成人となる18歳時点で、世の中の仕組みを知って、進みたい道を選べるようにしてあげれるなら、その方が良いような気がする。