1977年公開の映画「八甲田山」は、父親に誘われてふたりで観に行った最初で最後の映画だ。高度経済成長期を支えた猛烈サラリーマンだった父親は、土日は接待ゴルフでほとんど家にいたことがない。夏休みの家族旅行も、途中で合流して、一足先に帰る、というのが普通だった。お父さんは仕事だからしょうがない、それが当たり前の時代だったのだ。
そんな頃に映画に誘われたのがとても不思議だったが、実はこの映画、「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」というコピーで、リーダー論として管理職諸氏の心を揺さぶったのである。真面目なモーレツ社員だったわが父も、ご多聞に漏れず、この映画でリーダーとしてのあり方を学ばねば、と実に珍しく映画館に足を運んだのである。彼にしてみれば、映画などは単なる娯楽で、遊んでいるにすぎず、無駄な時間だと捉えていたはずだ。だから誘われ方も、休日に映画に行こう!というレジャーモードではなく、お前もリーダーシップ論を学んでおけ、というお勉強モードだったので、ウキウキしたりはしない。どうせ映画に行くなら、カドカワ映画を見たかった。
映画はとても良くて、私を映画好きにするのに十分な影響があった。そして、映画から読み取ったリーダーシップ・マネジメント論はというと、46年たった今も、わが社で起こっている情けないあれこれを、この映画の全滅した青森5連隊の構図で説明できてしまうから泣けてくる。
というわけで、何かと印象深く心に残っている「八甲田山」だが、この「囚われの山」は、八甲田山の遭難事件の新たな解釈である。遭難事件の真相は、実は人体実験だった。というのが本書の宣伝文句にある。
小説は、過去の遭難事件を負う歴史雑誌の編集者の視点で書かれた現在パートと、当所の遭難の様子を資料から読み解いたドキュメンタリ―パートが交互に描かれる。現在パートのストーリーには、なくていいのに、と思う読者サービス的なエピソードにやや興覚めしたものの、遭難事件の新たな解釈は読みごたえがあった。
どこまでが本当で、どこいらがフィクションなのかわからないが、ドキュメンタリーパートは臨場感を持って迫ってくる。
これを読んで、改めて映画を観るか、映画を観ておいて、この小説を読むか。
読んでから観るか、観てから読むか。そんな宣伝文句が耳にうるさかったのもこの時代だろうか。八甲田山が公開された1977年には、人間の証明、八墓村、悪魔の手毬歌、が封切られた。洋画ではロッキーが封切られている。
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