時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

いまさらの「万引き家族」に驚嘆する。

 というわけでアマプラでいろいろ映画を観た中で、長年気になりながら見る機会を逃し続けていた「万引き家族」を観た。いまさらながら、である。

 モバイルノートパソコンの小さい画面で食い入るように見入っってしまった。

 個人的な印象なのでが、モバイルノートの13インチの画面で映画を観るのは、電車の中で文庫本を読みふけってるのと感覚が似ている気がする。没頭できる。

 ちなみにこの映画は地上波でも放送されたように思うのだが、茶の間で家族が集まって観るような映画だろうか。

 いや、松岡茉優さんや、安藤サクラさんが演じた性的シーンの心配ではなく、物語自体がはらむ危うさの方だ。

 ここで描かれていたのは、居住地を同じくする血縁もしくは住民票レベルでの「家族」の崩壊と、家族という枠からはぐれてしまって「個人」となった人たちが寄り添う疑似家族の物語である。

 しかも、疑似家族は、血縁のある戸籍上の家族よりも、愛にあふれた素敵な人たちでした、この「家族」に入れて幸せです、などというオチにはしてもらえず、「母」が死んだら年金欲しさに床下に埋めてしまうし、「息子」が警察に捕まったら見捨てて夜逃げしようとするし、浅はかで貧しくて底辺なやつらなのである。かといって、そこを嗤うコメディでもなく、なんやかんやいって、やはり人間は愛と絆を大事にしなきゃぁ、などとわかりやすく正しさにあふれたメッセージもない。

 どうしようもないのである。えらいものを観てしまったな、と思ったし、地上波を家族と観たりしなくてよかったな、とも思った。たぶん集中できず、汚くて猥雑なシーンばかりが印象に残って、この物語の怖さに気づけなかったのではないか。

 さらに、この物語を表現した役者さんの演技や監督の演出のすごさもある。特に子役の幼い女の子のリアリティは、その表情だけでどきどきはらはら、を感じさせたし、安藤サクラさんが取調室で泣くシーンは鳥肌ものだし。リリー・フランキーは立ってるだけで、ダメな奴ってわかるし。

 同じシナリオでも、この役者さんたちでなければこの物語は表現できない、と思わせるものだった。

 「家族」で海に行き、砂浜で戯れる。この「家族」がもっとも輝いた一瞬だが、それをつつがなく続けることが何でこんなに大変なのか。何がそれを壊していくのか。壊れるのではなく、時が進むゆえの必然かつ避けられない変化なのか。フィクションという虚飾をはがしたら、誰もが画面の中の誰かではないのか。

 重くて素敵な映画だった。