オリックスはイチローをCMに使うけど現役の選手は使わないのだろうか
今週のお題「下書き供養」
阪急、近鉄、南海、京阪、阪神、と大阪市内に起点を持つ鉄道会社は多い。それぞれが、遊園地などの集客施設を作ったり住宅街を造成したりと沿線開発を行ってきた。中でも、阪急と近鉄と南海と阪神は、沿線に球場を作りプロ野球チームを持っていた。そのうちの阪急と近鉄と南海がパ・リーグに属していた。阪神だけがセ・リーグに属し、東京の巨人へのアンチとして大阪の代表のような位置づけで人気を博していたのだが、結局は当時の巨人の人気の裏返しのようなものだったのだろうと思う。常に巨人に対抗する阪神という捉え方を関西人はしていたと思うので。
で、パ・リーグに属していた3球団は、阪急がオリックスに変わり、後に近鉄と合併してオリックスと楽天に分かれた。南海は、ダイエーに変わり、その後ソフトバンクに変わった。
昨今、それぞれの球団が、かつての球団のユニフォームを着て試合を行うイベントを行っていて、オールドファンを感涙させてくれている。そういえばそのイベントでダイエーの監督だった王貞治氏が南海のユニフォームを着てベンチにいるのを見たときはちょっと複雑だった。南海と言えば野村克也氏がその代名詞となるような球団で、華やかな大スターである王や長嶋に対して、自分は日の当たらない月見草だといったことは有名である。その月見草のユニフォームを、野村氏が晴天の元に咲き誇るヒマワリにたとえた王貞治氏が着ているのである。
話がそれたけど、今思えば、大阪の中心部から言えば1時間もかからないような通勤エリアにプロ野球の球場が3つあったわけである。パ・リーグ6球団のうちの3つがあったのだから、大阪はプロ野球天国で、常にどこかしらでプロ野球が行われていて、会社帰りにナイターを見に行こうと思えば、それこそいつでもどこでも、の状況だったわけだ。野球ファンにとっては贅沢この上ない環境だったのである。
しかしその頃は野球はセ・リーグで、関西の球団といえば阪神で、難波や西宮や藤井寺、日生というパ・リーグの球場は閑古鳥が鳴いていた。
無料の招待券をもらってなんば球場に南海の試合を観に行ったら、売店もないので、入場口でもぎりをやっていたおじさんに、球場内でお弁当とか売ってないのか聞いたら、「一回出て高島屋あたりで買ってきてください。半券なくても、顔覚えてますから大丈夫」といわれたことがある。
客席はがらがらで、みな寝転がって試合を見ている。試合の展開と全然関係ない場面で、わーっと歓声があがるのでどうしたのかと思ってたら、スコアボードにある他球場の結果のTの数字が変わった。つまり、なんば球場で寝転がって、ラジオで阪神戦を聞いているのだ。
そうこうしていたら、外野席の観客が一斉に動き出して、外野席の端に集まりだした。なんば球場は、内野席と外野席の境にブルペンが設置されていたのだが、当時トレードで南海に移った江夏豊投手が投球練習を始めたのである。観客は試合そっちのけで、ブルペンの江夏を見て「阪神に帰ってこーい」などと口々に叫んでいるのだ。1塁側の客と3塁側の客が口論できるくらいに、静かな球場なので、グラウンドにいる選手にも聞こえているだろう。同じプロ野球選手としてどんな気持ちだったのだろう。
パ・リーグの、関西のどのチームのなんという選手か忘れたが、活躍した日は、まず阪神の試合結果を見る、といっていた。関西のスポーツ新聞は阪神一色なので、自分たちが1面を飾ることなど滅多にない。阪神が大負けしていたり試合がなかったら、仕方なしに自分たちが取り上げられることもあるから、まずは阪神の試合結果が気になるのだそうだ。その選手は、自分が大活躍をした日に阪神が移動日で試合がなかったことがあり、さすがに明日は俺が1面を飾るだろうと翌日のスポーツ新聞を楽しみにしてみたら、新幹線の新大阪駅で電車を待つ背広姿の阪神の選手たちの写真が1面で、「いよいよ直接対決!決戦の後楽園へ」みたいな見出しがついていた、と嘆いていた。
で、そんな中でふと思ったのがタイトルに書いたオリックスのCMだ。川栄李奈さんがメインだが、イチローが出てきて、オリックスといえばイチローというイメージになんの違和感もなかったのだが…。
近鉄とオリックスという2つのチームが合併してそれぞれから優れた選手を集めたオリックスだったが、だからといって強いチームになるわけではないところに人間集団の難しさがあるのだろうなぁと思ったりする。