読書メモ 「鉄路の果てに」清水潔 2020年5月 マガジンハウス
著者は「桶川ストーカー殺人事件」「殺人犯はそこにいる」などのドキュメンタリーで高い評価を得ているジャーナリストである。本書は、シベリア抑留体験がある亡父が残したメモに書かれた「だまされた」の文字の意味を知るべくシベリア鉄道の旅に出た旅行記だ。
ミステリー小説のような導入で始まる本書は、旅行記としては、同行者で盟友である「センセイ」との軽妙な掛け合いも楽しいおっさん二人の愉快で笑える旅日記と、大日本帝国が日清、日露戦争を経て拡大した領土を第二次世界大戦によってすべて失うまでの戦争の歴史を一望できる構成になっている。
著者は、一連の戦争のありさまを、シベリア鉄道をキーワードに俯瞰していく。読んでいて思ったのは、当時の国家運営というものが、まるで中小企業のワンマン経営者の個人企業の運営のようにして行われていたのだな、ということだ。もちろん欧米列強の植民地政策から東アジアを守るという大義もあったのだろう。そこには嘘はないにしても、たとえば、すべての人々を病苦から救うことがわが社の使命である、という大義で経営されているであろう製薬会社が、人命よりも利益を優先して薬害事件を起こしてしまうのと同様に、なぜか人はやらかしてしまうのだ。
しかしながら、国家経営の失敗の被害は、国民全員に及ぶ。失政は、カネを失うだけではなく、国民の命を数百万の単位で失い、それに伴う数えきれないほどの不幸や苦痛や哀しみを産む。大日本帝国だけが悪いのではない。どの国も自国の利益優先で利己的にふるまった挙句の不幸なのだ。自国の利益というのは、言い換えれば、その時の為政者の利益だ。為政者の利益となれば、国家の大計から、個人のちっぽけな、くだらないメンツまでを含む。
それにしても日清戦争が明治27年、日露戦争が明治37年である。物心ついたころにはまだ江戸時代で、ちょんまげに着物姿が当たり前だった世代がまだ十分に存命していた頃である。このわずか30年の間の日本における世の中の変化はあまりにも激しいのではないか。たとえば、ぼちぼち定年を迎えるサラリーマンが、新卒で働きだしてからおよそ40年である。個人史や生活史でいえば、変化はあっただろうし、テレビや電話やパソコンなどという電化製品の進化は目を見張るものがあるが、当たり前とされていた生活様式に関しては、根本的な変化はない。40年前に就活のために手に入れた背広は、今は背広などとは言わず、スーツというようになったが、基本デザインは変わらない。クールビズでネクタイ姿が必須ではなくなった、という程度の変化はあるが、30年前はみんな背広に七三の髪形だったが、今思えばあんなかっこ悪い姿でよく道を歩けたよね、と笑っている人たちが着物にちょんまげ、と想像すれば、その変化の激しさが想像できる。
「この本読んで一番感心したのはそこか?」と著者に呆れられそうだが、肝心な読みどころは、十分な読みごたえがある。戦争が残したものは、終わった過去の遺物ではなく、その因果は今も継続していることに気づいて背中が寒くなる。