時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

ある居合道家の煩悶

 私の知人は、某連盟所属道場で10数年稽古に励み、練士に昇段された。現在は、勤めを定年され、連盟の道場を卒業し、フリーの立場で同志と共に稽古に励んでおられる。ここ数年は、家に居ることが多くなり、暇に任せてネットを検索していろいろな居合を見分されたとのこと。

 そこで、彼は気づいてしまったのだった。

 

「連盟で習った居合は間違っていた」

 

 まぁ、某連盟に所属していると、そのあたりをうすうす感じる人は少なくないようなのだが。

 

 疑問の発端は割と単純で、自信があった抜き付けで、試し斬りの藁を斬れなかったことだそうだ。学んだとおりの抜き付けで、刃筋が通っている証拠に鋭い刃音も鳴っている。

 なのになぜ直径10センチ程度の藁ごときが斬れないのか。

 何かが間違っていたのだろうか。だとしたら何が?

 

 そのヒントがyoutubeの海の中にあったのだそうだ。

 

  youtubeを検索しまくって、いくつもの居合道家の動画を見る中で、自分なりに納得できる解説をしている動画を見つけ、そのやり方を参考に、試し斬りに挑んだところ、抜き付けの一刀で横一文字に巻き藁を切断できたのだという。

 

 聞くと、その動画をアップしていた居合道家は、私が師事している方だった。

その居合道家も、元は連盟の道場にいたが、連盟の道場を辞し、自ら様々な研究を重ねておられる。その視点のひとつは、居合の型の中に、身体操法としての意味を求める、ということだ。

 たとえば、初心者の頃、正座からの斬り下ろしの場合、切っ先は床から15センチくらいのところに来るように、というような指導をされる場合があるが、切っ先を床から15センチのところで止めることに専念するより、正座からの斬り下ろしという動作の中で身体の各部が精密に連動することで、腕力に拠らず強い斬撃が出来た場合、切っ先は床から15センチあたりで止まるのだ。もちろん15センチ、というのも、刀の長さや腕の長さ、体格などで差は出て当然なので目安なので、そこを目指すのではなく、武術としての精密な身体操法を習得することを目的にする。

 

「居合の動作としてどれが正しいとか、あれが間違っているとかではない。ただ自分は刀という道具を用いた武術として、武術的な身体操法のヒントを型の中から見つけ出そうとしている」

 

 思えば江戸の昔より長い年月、多くの人がこの型で鍛錬をしてきたのであるから、やはりそこには刀を伴う身体操法の秘訣が書き込まれているのではないか、と思う。

 

 「居合道」には「道」として学び、守るべき点は大いにあり、「居合術」という場合には「術」として探求し、身につけることは多くある。人を斬る「術」として生まれ、「道」として人を導く。

 そう思うと、なかなかに深く難しいものなのである。

 

 先日、知人を伴って、その居合道家が主宰する稽古会に参加してきた。

 「Youtubeとおんなじこというてはったわ」って当たり前やん本人なんやから…。