時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

回想法3 探偵事務所と黒猫のブルース

  かれこれ35年も前のことだ。いよいよ残り少なくなってきた京都での学生生活をどんな風に過ごそうかと考えつつ、卒業旅行の資金もためなければ、ということで、「記憶に残る珍しいバイトをして小遣い稼ぎもしよう」と欲張った計画を立てた。

 当時は、ネットもスマホもない。アルバイト情報誌を書店で買って仕事を探すのが当たり前の時代だった。

 

 見つけた!と思わず興奮してしまった。あった。探偵事務所のアルバイト募集。ベーカー街を皮切りに、さまざまな探偵の冒険譚を耽読していた私にとって、憧れの響き「探偵」。ついに、その探偵になれるかもしれないのだ。もちろんすぐに電話して、めでたく面接に行くことになった。

 事務所は、白い外観の小ぶりなマンションの一室だったと記憶している。ピンポンして、スピーカー越しに、どうぞ、と招き入れられ、玄関でスリッパに履き替えて奥の部屋へ。そこが事務所スペースになっている。入っていくと、籐のエマニエルチェアに座った長い髪の女性が膝に黒猫を抱いて出迎えてくれた。

「ごめんなさいね。この子がどいてくれないの」

 

 でた。これは…、ホームズでも金田一でも明智でもない、探偵事務所の最右翼、綾部探偵事務所じゃないか。椅子に座ったまま出迎えてくれた女性は真っ黒でまっすぐな髪が腰のあたりまであって、ちょっと太っていて、30代になったばかりくらいだろうか。

「みんな出払ってるんだけど」ということで、自分が所長だと名乗った。

「あなた原付持ってる?持ってたらその方がいいんだけど」

「いや、ないです。自転車なら」

「自転車かぁ」

「自転車といってもママチャリじゃないです。5段変速がついた…。やっぱり原付があった方がいいですか」

「そうねぇ。追いかけたりするときにはねぇ」

「追いかけるんですか」

「まぁ、相手が急にタクシーに乗ったりすることもあるしね」

タクシーに乗った相手を原付で軽率なエンジン音を響かせて追いかけるのか。

「浮気調査とか、多いからね」

「浮気調査ですか」

「そうよ。それが探偵。なに?殺人事件の犯人当てとかすると思った?」

そういって猫をなでながらふふふと笑う。

目をそらして壁をみたら、ホルスターに入った無線機が何台か並べて壁に吊るしてあった。

「あれ、無線機だけど、あれを持ってもらうの。あれで連絡を取り合いながら尾行とかしてもらう」

 原付があった方が助かる、というのと、できればいつでも連絡がつく環境で、連絡がついたらすぐに動けるようにしてほしい、ということだった。

 まだ授業が残っていてそれを落とすと卒業が危うい。携帯電話もない時代、下宿の玄関先のピンク電話に一日中張り付ているわけにもいかない。どうやらご期待に沿うのは難しいかもしれない、と断った。黒猫を抱いて、エマニエルチェアに座っている長い髪の女の人に気おくれしたのかもしれない。今思えば、チャリでも頑張れるから、とでもいって一度経験しておけばよかった。