時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

回想法2 祇園スナックゆうこの哀愁

  かれこれ35年も前のことだ。いよいよ残り少なくなってきた京都での学生生活をどんな風に過ごそうかと考えつつ、卒業旅行の資金もためなければ、ということで、「記憶に残る珍しいバイトをして小遣い稼ぎもしよう」と欲張った計画を立てた。

 当時は、ネットもスマホもない。アルバイト情報誌を書店で買って仕事を探すのが当たり前の時代だった。

 

 見つけたのは祇園のスナックだった。祇園といっても舞妓さんが歩いている通りとはかなり外れていた。夕方面接にいった。ママさんが面接をしてくれた。経験はあるのかと聞かれたので、ない、と答えた。実際になかった。白いワイシャツとネクタイ、黒いスラックスがあるか聞かれた。安物だが一応持っていたので、持ってるというと、明日から来てくれといわれた。

 翌日店に行った。

 スナックで大学生男子は何をするんだろう。ボトルを運んだり、氷を運んだり、雑用だろうとは思ったが、なんとなく映画で見たバーテンみたいに、カウンターの後ろで、アイスピックを操って寡黙に氷を割ったりするようになれたらかっこええな、と思っていた。

 最初にやらされたのは、おしぼり巻きだった。

 店には、男子大学生のバイトがもう一人いた。先輩だ。

 洗濯したおしぼりを二つ折りにして、テーブルの上で押し付けるようにしてしっかりと巻き、最後にキュッとひねって終わり。この最後のキュッがなんだかプロっぽい。

先輩にやり方を教わってやってみる。きつくきちっと形よく巻くことが、なかなかできない。

おしぼりを巻いていたら、ママさんが来て、チーママさんも来た。着物姿だったと思う。そうこうしているうちにお客さんが来た。今思えば30~40代の、若めのおっさん数人のグループだ。ママたちがテーブルについて接待を始める。にぎやかな話声が狭い店を埋めていく。こちらは何をしていいかわからない。ボーっとしていたら、チーママさんが席を離れてカウンターの方に歩いてくる。最初はにこやかに、そして次の瞬間に激しく顔をゆがめた。憎々し気な表情で、聞こえない声で何か言葉を吐き捨てた。そして次の瞬間には笑顔に戻る。そういう姿を何回か見た。

 そのうち先輩アルバイトがテーブルについた。チーママが私のところに来て、「テーブルについて。私が注ぐから、注がれたら、いただきます、といってお客さんと乾杯しなさい」といわれた。

 わけがわからないまま、テーブルについて、並々とウィスキーを注がれたグラスを客のグラスにカチカチ当てながら「ごちそうさまです」を繰り返した。舐めてみたがほとんど薄められてない。濃くて飲めない。

 それにしても、このスナックの客は男子大学生を相手に飲んで楽しいんだろうか。女子大生が相手ならわかるけど。

 そのうち、客たちが先輩をいじりはじめた。当時は「いじる」などという言葉はなかったが。

 客の誰かが先輩にどこの大学かを聞いた。先輩は、京大の2年だと答えた。私も同様にきかれたので、普通に答えた。こちらはしょぼい私大なので、おーそうかそうか、という反応だった。お客たちの矛先が先輩に集中する。

「京大出たら人生楽勝と思ってるのか」「社会に出てしまったら学歴は関係ない」「こういうことできるか、こういうことわかるか、京大では教えるのか」「でもこの子がもしうちの会社に入ったら、偉そうにできるのは最初だけ。10年もしたらへーこらせなあかんかもな」「そやなぁ」「飲めよ。飲ましたる」

 京大在学中の先輩は何を言われても、はい、はい、すみません、と低姿勢に徹している。そのうち夜遅くなってから、女の人がひとり来た。地味なお姉さんで、子どもを寝かしつけてからちょっとの間アルバイトに来ている主婦だという。その人が席に着いたら乾杯のやり直しだ。テーブルのそこかしこに散らばったグラスがさっと片付けられて、新しいグラスが並ぶ。私のグラスはほとんど減ってなかったが、下げられて空のグラスが来た。またそこになみなみとウィスキーが注がれ、カチカチとグラスを合わせる。後から来た女の人は、酒が飲めないということで、グラスはさっと下げられ、ウーロン茶のグラスに交換された。その後はにこにこと座っているだけだ。お客は相変わらず京大いじめに夢中である。何が楽しいんだろうか。

 客が帰り、店じまいになる。後片付けをしながら、京大の先輩は、「ここで俺は世の中を学んでいる」といっていた。ちょっとふらふらしているので酔っぱらっているに違いない。それでも、なのか、だからか、なのかわからないが、先輩は、なぜ自分がこのスナックにいるのか、この店で何をするのが店の役に立つのか、をぼろぼろとしゃべっていた。ここで働く以上は、この店のためになるようにがんばる。どうしたら店のためになるか。それは客の酒をできるだけ多く飲むことだ。

 京大といわず、適当に3流どころの私大の名前を出した方が楽じゃないか、といってみたが、京大といったからこそ、言われる言葉も、見える態度もある、という。マゾなのか?受験エリートであることに何か罪悪感でもあるのか?

「あんた、明日も来る?」とママに聞かれたので、一日置きに週3日くらいでもいいかと聞いた。慣れるまではね、ということだった。実際はほとんど舐めてただけとはいえ、長時間酒の席にいてそれなりの量は飲んでしまったようだ。

 それから何回か店に行って、同じような光景を何度か見て、出勤予定ではない日の夕方早い時間に店に行って、辞めると伝えた。

「あ、そう。何回来たんやったかな」

「6回です」

「ふーん」といって財布を出して背中を向け、こちらに向き直って、手にした何枚かのお札を「これ」と渡された。いくらなのか確認もしないで受け取った。

「ありがとうございました」というと、しばらくこちらを眺めている様子だったが、特に何もいわれなかった。ゆうこ、というのがママの名前だった。本名ではないだろう。