時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

読書メモ こんな雨の日に 映画「真実」をめぐるいくつかのこと 是枝裕和 2019年 文芸春秋

 「万引き家族」「海街Diary」の是枝監督が、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に、2019年に制作した日仏合作映画「真実」の、構想から、脚本執筆から、出演交渉から、ロケハンから、撮影から、クランクアップまでの、映画作りのすべての道のりを綴った制作日記である。

 日記だけでなく、ラフな絵コンテや、カメラ位置を示した図や、スタッフや出演者に適宜手渡したという直筆の手紙なども収録されている。

 

 私自身は、マニアというほどではないが映画は好きで、大学生の頃は東映京都でエキストラのアルバイトに参加したりして、多少は撮影現場も見学したことがあるのを自慢話にしたりしていたのだが、この制作日記を読んで、映画監督のあまりにも煩雑で膨大なな業務に驚嘆した。私が垣間見た撮影現場など、膨大な業務の中のほんの一部にしかすぎなかったことを知らされた。

 

 ときに、出演者との交渉や話し合いの過程で、役名が変わったり設定やセリフが変わったり。また、家族の役をする役者を事前に合わせて一日過ごさせ、家族の雰囲気を出せるようにしたり。予算の心配もしなくてはいけないし。日程の心配もしなくてはいけない。プロデューサーと2人3脚で八面六臂の仕事ぶりである。

 

 えー、そこまでするんやー。まるで何気ない日常であるかのような淡々とした日記文なのだが、読めば驚きの連続である。そして、実は映画のことなど何も知らなかったのだということを知る。客席で画面を観ていれば、ふと集中が切れたりした瞬間に見逃してしまうであろう一瞬の表情や声色にも、役者や監督やカメラマンはじめスタッフたちが協議しながら時間をかけて作り上げていることを知る。しかも監督は、撮影現場で神のように全権をもって君臨しているわけでもなく、いろいろなことに気を使いながら、時には主演の大スターの我がままにも柔軟に対応しながら、しぶとく、根気よく、仕事をしていることがわかる。

 また、彼らには当然なのだろうが、監督も役者も実にたくさんの映画を観ている。ドヌーヴも是枝作品をはじめ、日本映画を多く見ているようだ。

 

 この本は、図書館でたまたま見つけて手にしたものなので、私自身は「真実」という映画の存在すら知らなかった。なので、当たり前なのだが「真実」という映画を観てみたくなった。役者もスタッフも、あんなに思考錯誤して撮ったあのシーンは、どんな映像になっているのだろう。制作時の思いはどんな風に映像に焼き付けられているのだろう。ちょっと前の映画なのでDVDになっているだろう。レンタルできるだろうか。

 そこでふとamazon primeのことを思い出した。primeも、月に500円払って、最初こそ夢中で映画を見まくったが、最近はご無沙汰だ。レンタル屋に行く前に、primeで検索した。あった。しかも、字幕版と吹き替え版の2種類ある。本の冒頭で、役者たちの声のバランスがとても良いと書いてあったので、ぜひ実際の役者の声を聴いてみたい。なので、ここは字幕版を選ぶ。

 さて、映画を観る前に、もう一度、本書をざっと読み返してみよう。

 

 

居合道 脱藩浪人のつぶやき

 華道、茶道、書道、とかく道のつくものにはお金がかかるという。いやいや、どの道にかかわらず、大人の趣味にはお金がかかる、ものなのだそうだ。

 居合道はどうか。私が所属していた道場は、某居合道連盟に加入していた。

 

 さて、連盟である。道場に参加していて連盟とかかわる最大の行事は昇段審査である。入門当初は「段外(だんがい)」と呼ばれる。入門して最初に迎える3月に、はじめての昇段審査がある。ペーパーテストと既定の業を何本か抜く。それをクリアしたら初段。二年目には二段、三年目には三段。五段までは、連盟の支部で受講できる。近畿支部なら大阪だ。六段以上になると、五月に全国から加入道場の面々が京都に集まる全国大会の中で、昇段審査が行われる。五段まではロカール。六段になって、ようやく全国ネットになる。ここに大きな差がある。六段以上にはそれだけの価値があり名誉もある。そして連盟に対する責任も大きくなる。

 そうなのだ。責任が大きくなるのだ。そして大人が責任を果たすためには、やはりカネがかかるのである。

 年に何度か行われる宗家講習会。宗家が直々に指導してくださる会だ。有名な神社の武道場を借り切って行われる奉納演武会、そしてまるで政治家の集金パーティを模したかのような名刺交換会。

 

 曰く、連盟という組織が維持できなければ、君たちが努力の末に得た段位の允可状も紙切れになる。

 曰く、仕事を持ち、家族を養い、わずかな休日を居合の精進に当てている君たちの事情はわかる。仕事と連盟の行事が重なった際に、行事を優先しろとは言えぬ。しかし、行事への参加の仕方は、なにも会場に身体を運ぶことだけではない。参加の意思を示す方法は、他にもある。

 

 意味が分からず首をかしげていると、横にいた先輩が小声で「来なくていいから、参加料は払え、っていうことや」と教えてくれた。なるほど、そういうことか。

 

 連盟も五段あたりから、いろいろな行事が増えてくる。行事の前には、まず連盟から道場主に連絡が来るらしい。「お前のところには五段以上が4人おるな」と。つまりは会費5000円x4人で20000円が道場のノルマになるわけだ。とはいえ、実際に、参加を強要されたり、参加できない時には参加費用だけとられたり、はなかったが、諸事情でやむを得ず参加を断るときには、ずいぶん気を使ったものだった。

 

 そんなこんなで、連盟への義務を果たすことが、まずは小遣い的に厳しくなって、結局道場を辞めることにしたのだが、道場を辞めたというよりは、連盟を辞めたという方が正確だろう。道場にも居合の稽古にも不満はなく楽しんでいたのだが。とはいえ、道場には通うが連盟からは籍を抜く、段位もいらない、というのも、館長やメンバーに迷惑をかけるので、辞めることにしたのである。

 

 道場を、というか、連盟を辞めたら辞めたで、不思議なことになんやかやで連盟を辞めた居合道家と知り合ったりして、そういう人が主宰している練習会に参加したりした。そしてその主宰の知人である、やはり連盟の道場を辞めたフリーの居合道家が主宰する稽古会に参加したりしながら、それぞれの方が研究した居合の型の解釈や、失伝しかけている古流の業の再現など、連盟にはない刺激的な体験をした。

 そういうフリーの居合道家を私はひそかに脱藩浪人と呼んでいた。連盟に付属する権威勾配や段位や政治的なものから解放されて、自分が思う居合を自由に研究し追及している脱藩浪人の特徴は、他者の解釈や動きを否定しないことだ。後ろ盾がない者同士、自分の解釈も他者の解釈も、それぞれひとつの解釈として受け入れていかなければ、ひとりよがりになり、広がりがなくなってしまう。

 正解を知る人もおらず、勝ち負けで結論を出すこともできない居合の世界だが、それゆえに、脱藩浪人たちが探求するそれぞれの居合にはそれぞれの面白さや深みがある。

 言ってしまえば、刀を抜いて横と縦に振るだけなんだけど。不思議である。

居合 試し斬り

 畳表を丸めて水に浸したものを本身の刀で斬ります。刃筋が通れば、力を入れずにさっと振るだけでスパーンと抵抗なく切れてしまいます。切り口もきれいです。刃筋が通らなければ、どすっと刃が畳に食い込むだけだったり、斬り落とせても切り口がささくれ立っていたり、まったく斬れずにどんと叩いただけになってしまったり。これがなかなか難しいのです。

 模擬刀での型稽古の場合は、風を斬る羽音がビュンとかヒュンとか、時には金属的なキンという音がするので、それで刃筋を判断していますが、それの見える化ですね。

 畳も用意していただき、日本刀もお借りしての体験でした。

  右の袈裟斬りはなんとかなりました。それにくらべて左の袈裟斬りは不安定。脇構えからの水平斬りは、刃がどすっと畳に食い込んで止まってしまい切断にはいたりません。斬ったというより、叩きこんだ、という感じです。今の技術だと、居合の要である抜き付けの一刀で畳を両断するなんてのは、ちょっとイメージしにくいですね。

 とはいえ、普段は型稽古のみなので、こういう風に実際に物を斬ってみることで、刀とはこういう道具だし、もちろん、畳を斬るためではなく人を斬るためにあるのだな、と思うと、立てた畳が人だとして、そんな歯ぎしりの音も聞こえそうな「目の前」に、死ぬか生きるかで必死になって、人生最大の興奮状態にある人間が日本刀を持って立っていると思ったら、すくんでしまって、畳表のようにあったりと切り捨てられてしまうんじゃないか、と思ってしまいます。怖い、怖い。

 

 昨日見た「燃えよ剣」でも、新選組の乱闘の後には、地面に指がいっぱい転がっていた、というエピソードが語られていましたが、実際はそうなるんだろうなぁ。

 大昔に、タイのバンコクで、軍が小遣い稼ぎでやっているという「射撃体験」に参加して、実際の軍用拳銃を何発か撃ったことがあります。その時は射撃練習場の奥に転がしてあるコーラの空き缶を的にして撃つのですが、実際はコーラの空き缶ではなく、銃で武装して、死ぬか生きるかで必死になってる人間がその辺にいて、こちらを殺そうと銃を構えている、と想像したら、びびって気絶しそうになりました。

 日本刀も拳銃も、人殺しのためだけの道具です。そのために作られ、それ以外に何の用途もないのです。なんてことを改めて思った一日でした。

 

映画「燃えよ剣」

 手元に、月刊「秘伝」2020年6月号がある。特集は、「新選組の剣」。表紙は、映画新選組のポスターから土方歳三に扮する岡田准一のアップ。

 マニアックな武術専門誌としては異色の号だ。岡田准一氏が武術に造詣が深いことから、このような特集ができたのだろう。芸能誌や映画雑誌ではなく武術雑誌である。思わず買ってしまった。誌面の冒頭は、岡田准一氏へのインタビューなのだが、さすがの武術雑誌らしい切り口で、氏が映画でこだわった殺陣や武術について、そしてそれを映像でエンタメとして魅せることへの苦心が語られていた。誌面では、映画は近日公開と書かれている。この号が刊行される時点では、映画の公開延期は決まっていたはずだ。コロナ禍での自粛生活真っ只中の頃である。

 それから1年と3か月。ようやく「燃えよ剣」が公開された。

 映画は、約2時間半で、バラガキ時代から函館での最期のシーンまでを駆け足で綴る。土方歳三の生涯をダイジェストで見る感じで、先に小説を読んでおく方がいいとは思うが、決して中身が薄いわけではない。だれることなく濃密な時間を過ごせた。

 

 新選組が結成される前の土方たちがいい。土方が乗り移ったかのような岡田准一さんはもちろんいい。そして沖田総司がすごくよかった。ジャニーズのアイドルグループHey!Say!JUMPの山田涼介さんが演じている。この沖田総司もドラマや小説のキャラクターとして一定のイメージが定着しているので、演じる側は、そこに自分をどう重ねていくのか、けっこう難しいと思うのだが、「そうそう、沖田はそう!」といいたくなる沖田総司っぷりなのだ。

 

 「燃えよ剣」は、若いころに読んで、かなりはまって、土方歳三の最期の地を目指して函館まで行ったこともある。司馬遼太郎の小説の中で生きていた近藤が、土方が、沖田が、目の前のスクリーンに蘇った。

 そんな映画だった。

 だが、岡田准一氏創案の殺陣をはじめ、決して昔ながらの時代劇ではない。新しくて、激しい、今を生きる時代劇である。

 

「マガポケ」「ピッコマ」「LINEマンガ」

今週のお題「読書の秋」

 読書の秋なのだが、スマホのマンガアプリを3つほど入れてみて、それにすっかり時間を取られてしまっている。どれも似たようなサービス形態で、連載マンガの何話かまでが無料で読めて、それ以降は、それぞれのサイト独自のポイントを手に入れて読むのだ。ポイントの手に入れ方は、サイトを開くとか、サイトがお勧めするマンガをいくつか読むとか、動画を観る、とかである。動画を観る、というのは、30秒ほどのCMを観るということだ。それでも足りない場合は、課金してくれ、となる。

 無料閲覧はあくまでも餌で、何度もアクセスさせることで広告収入を得て、次を読みたい人に強制させる「CM視聴」でさらに広告収入を得て、課金して購入させて購読料を得る。そんな感じのビジネスモデルのようだ。

  マンガを読むようになって、めったに立ち入らない書店のマンガのコーナーに行ってみた。そしたら、スマホで読んでるマンガの単行本がたくさん売られている。

 作者側にとっては、単行本の印税となれば単純に計算できるんだろうが、マンガサイトで読まれた原稿についてはどんな契約になるんだろうか、と余計な心配をする。

  マンガによっては、複数のサイトに掲載されているものもある、映画にもなった「ファブル」もいくつかのサイトで掲載されていて、どのサイトでどこまで読んだのか、わからなくなったりする。

 こんな形でマンガの電子書籍化は進んでいるようだ。昔、知り合いの医師が、医学生の教科書類が電子化されたら学生は喜ぶだろうに、なんで普及しないのか」と嘆いていた。医学生となれば必須の教科書や参考図書の数だけでも相当な量になるらしく、「それがタブレットに収まれば持ち運びに便利だし、技術的には簡単にできるはずなのに」という。たしかにそうだと思うが、出版社が二の足を踏んでいるのは、現状を超えるビジネスモデルが構築できないからなのだろう。教科書を販売する昔ながらのルートが強固なんだろうな、と想像する。市場でいえばごく少数だから仕方がないのだろうけれど。

 みたいなことを考えながらマンガを読んでいるわけではなく、スマホの中でこれまで手にしたこともない「少女漫画」やら「女性向けの恋愛マンガ」やらに触れて、その視座や世界観の違いを知って新鮮な好奇心が沸いている。無料サービスの範囲だけだと、どうしてもつまみ食いのような読み方しかできないのだが、それでもこの歳で知らない世界にちょっと触れるというのは、面白い。で、家でも外でも、居間でも寝床でも、空き時間には常にスマホをいじっている人、になってしまっているのである。

読書メモ 電子書籍「余命10年」小坂流加 文芸社

 これもアマプラで読める小説である。タイトルママの内容で、タイトルママに話は進むのだが、わかっていてもやられてしまう。心の乱れはあるものの、特段哲学的にややこしい死生観を語るわけでもなく、「君の膵臓を食べたい」の世界に近い気がする。

 スマホで読んだけど、通勤電車の中ですらすらと読める。ダウンロードできるので、ネット環境やデータ使用量も気にしなくていい。なんせ荷物にならない。なんで電子ブックは流行らないんだ?流行ってるのか?

 

 それにしても文芸社って自費出版で有名で、自費出版といえば、百田尚樹の「夢を売る男」がその世界を赤裸々に、露悪的に、でも現実を知る人にとっては、それでもまだ遠慮してるというかもしれないが、そんくらいリアルに書き上げていて白眉なのだが、この本の刊行までのいきさつはどうなのだろう。

 そこいらはいいのだが、この本を読んで一番驚くのが、著者のプロフィールなのだが、何も知らずに読めて幸運だった。

 映画化されるそうである。なかなか演技力が問われるのではないか。「君の膵臓を食べたい」のようにアニメ化もされるかもしれない。いまや、アニメの方が複雑な心情を表現するには適しているかもしれないな。などと思った。

まんがをスマホで読んでみた。

 アマプラに巻き込まれてから、映画ばかり観ていたが、小説や雑誌も読めるということで、試してみた。小説をprime枠、つまりは追加料金不要で1冊読んだが、けっこう読めた。無料で読める電子ブックとしては「青空文庫」が有名だが、著作権が切れた古典的名作が多い。文学史に残る名作ばかりなので、ぜひ読んでみようとスマホにダウンロードしているのだが、読み通すのは、やはりなかなか大変だ。

 国語の教科書に出てくるような純文学ばかりではなく、江戸川乱歩吉川英治宮本武蔵も読める。どちらも読書体験のスタート時にはまった作家だ。

 異色なところでは、片岡義男が、いくつかの作品を、青空文庫に寄贈している。著作権は切れていないが、電子出版に関心のある氏が提供したとどこかで読んだ。

 

 その流れで、アマプラとは関係ないが、まんがアプリなるものをダウンロードしてみた。条件はあるものの、いろんなまんがが無料で読める。たくさんある中で、期間限定、全話無料、というまんがを読んでみたのだが、週刊少年マガジンに連載されていたらしい、高校生の恋愛まんがで、それはもう、江戸川コナン君が、道を歩けば死体に出会うように、主人公が何か行動するたびに恋愛に出会い、悩み、喧嘩し、泣き、よりを戻し、別の女性と出会い、そっちに流れて悩み苦しみ、と切りがないのだ。思春期の少年の妄想を物語として表現しているのだろうが、とにかくたいへんだ。週刊誌の人気連載だったのか、もう話としては終わってもいいだろうに、終わった方が作品として余韻の残るクライマックスが描けただろうに、話は終わらず、登場人物は、生活圏の狭い世界で恋愛悲喜劇を繰り広げまくる。おなかいっぱいになって、途中だったが、全巻無料期間が終わってしまって、最終話までは付き合えなかった。

 今日日、ネット環境と端末さえあれば、退屈しないなぁ。

 

アマプラは続くよ、どこまでも、ってか。

「初恋」「EAST meets WEST」「ミッドサマー」

どれもTSUTAYAに行けば旧作DVDで88円なのだが、ネットで観たいときに観れるのは、やばい。

 「ミッドサマー」は、映画評を観て気になっていたので、映画好きの友人に勧めたのだが、えらい怒られてしまって、お前には勧めた責任があるのだから絶対に観ろ、といってきたので、まぁ、彼には合わなかったんだろうけど、そんなに怒ってる映画をわざわざ観に行くことないなぁと、勧めておいて自分は観てない、というなかなか鬼畜な状況だったので、ずっと気になってはいたのである。

 で、アマプラのサイトを開いたら、いきなり「ミッドサマー」のポスター写真が出てきたので、これは観るしかあるまい、と衝動的に観た。

 友人は映画館で観ているので、視覚的な衝撃は13インチのパソコンの画面からの印象とは段違いなんだろうけど、そんなに悪い影響を受けるような映画だとも思わなかったが、友人は私が思っているよりピュアなんだろう。閉鎖された村の変な風習を持つ奴らの話なんだが、怖いんだか、気持ち悪いんだか、何を見せたかったのかいまいちわからなかった。いまいちわかりにくいと、世間の奴らはわからんだろうから、ここはわかったように書けば、かっちょいいかも、と評論家が高評価をつける、という、よくあるパターンにはめられたのだろう。とはいうものの、2時間30分ほどの長い映画だか退屈せずに観ることができた。

 

児童虐待、「適切」に対応してもこうなるなら、もはやルールが「適切」じゃないんだろう。

 胸糞悪くて、ニュース観ていてもこの話題になったらチャンネル変えてしまうのが児童虐待事件なのだが。今回も、役人が記者会見して、児相や役所の関りは適切だった、といっている。きっとそうなんだろう。子どもは親の元に、親が親権を持っているのだから、役所が無理に引きはがすわけには、しかし、そういうルールが作られたころに想定された状況とはまったくちがう世の中になってしまっているのだ。戦争で親を亡くした子どもが、食うためにかっぱらいをする、という想定での少年法が時代に合わなくなっているのも同じこと、もっといえば、明治の、平均寿命が55歳程度だったころの刑事事件の量刑が、100歳まで生きることも不思議じゃないといわれている時代に、「軽すぎる」と思われるのも同じことだと思う。

 社会福祉の業界では、「こども家庭福祉士」という資格の創設が議論されている。虐待や貧困にさらされる子どもに特価した福祉士を擁立しようという目的だ。

 また、いっとき職業的クレーマーに悩まされた病院に、医療安全対策として警察OBが配属されるケースが多くなっていたが、児童相談所の被虐待児を親から引きはがす際に、警察OBを児相に配備して協力してもらうのもいいと思う。子どもを守るためには、時には半グレみたいな「内縁の夫」との荒事に遭遇することもあるだろう。現職の警察も忙しくてつきあってくれないとなれば、そんな時には、餅は餅屋、定年後の元マルBがついてきてくれたりしたら、ドアこじ開けて、部屋に入って、あざだらけで死んだ目をした幼子を保護することもできるかもしれない。してほしい。

 それにしても、安易に子どもを作って、別れて、シングルマザーで不安と貧困にさらされて、で、そこにつけこんで、子ども好きな振りをして、甘言で不安な心に立ち入って、結局は毎日ただでセックスできる相手が欲しいだけの男に子供を殺されて。

 もっと、ぶっちゃけていおう。顔面ケロイドで、ケロイドの影響で上肢の動きに障害が残り、もしかしたら視力もダメになっているかもしれない状況で、当然親の支援もないまま生きる羽目になるよりは…。それほどの案件だと思う。でも、机でお勉強しただけの親ガチャ勝ち組の裁判官は、六法と判例を読んで読んで読んで、せいぜい7年とか8年の懲役で終わらせるのだろう。

 浮かばれん。本当に浮かばれないな。しかも、ニュースにならない、ここまでにはいたってない事案は、ハインリッヒの法則ではないが、山のようにあるのだろう。

 法律と体制をいち早く変えて、公の力で子どもを守れる制度を作ってほしいものだ。

 

 そういえば、スウェーデンに渡って現地で結婚し、子どもを産んだ私の知人が言っていたが、夜にちょっと大きい声で赤ん坊がないても、すぐに警察が来た、と。近所の住人が通報するらしい。怪しい東洋人の女が子供を育てているので、近隣の住人も何かやらかさないかと耳をそばだてていたらしい。日本の都会ではそういうコミューンの力は期待できない。専門の機関と専門家が立ち向かうしかない。

いまさらの「万引き家族」に驚嘆する。

 というわけでアマプラでいろいろ映画を観た中で、長年気になりながら見る機会を逃し続けていた「万引き家族」を観た。いまさらながら、である。

 モバイルノートパソコンの小さい画面で食い入るように見入っってしまった。

 個人的な印象なのでが、モバイルノートの13インチの画面で映画を観るのは、電車の中で文庫本を読みふけってるのと感覚が似ている気がする。没頭できる。

 ちなみにこの映画は地上波でも放送されたように思うのだが、茶の間で家族が集まって観るような映画だろうか。

 いや、松岡茉優さんや、安藤サクラさんが演じた性的シーンの心配ではなく、物語自体がはらむ危うさの方だ。

 ここで描かれていたのは、居住地を同じくする血縁もしくは住民票レベルでの「家族」の崩壊と、家族という枠からはぐれてしまって「個人」となった人たちが寄り添う疑似家族の物語である。

 しかも、疑似家族は、血縁のある戸籍上の家族よりも、愛にあふれた素敵な人たちでした、この「家族」に入れて幸せです、などというオチにはしてもらえず、「母」が死んだら年金欲しさに床下に埋めてしまうし、「息子」が警察に捕まったら見捨てて夜逃げしようとするし、浅はかで貧しくて底辺なやつらなのである。かといって、そこを嗤うコメディでもなく、なんやかんやいって、やはり人間は愛と絆を大事にしなきゃぁ、などとわかりやすく正しさにあふれたメッセージもない。

 どうしようもないのである。えらいものを観てしまったな、と思ったし、地上波を家族と観たりしなくてよかったな、とも思った。たぶん集中できず、汚くて猥雑なシーンばかりが印象に残って、この物語の怖さに気づけなかったのではないか。

 さらに、この物語を表現した役者さんの演技や監督の演出のすごさもある。特に子役の幼い女の子のリアリティは、その表情だけでどきどきはらはら、を感じさせたし、安藤サクラさんが取調室で泣くシーンは鳥肌ものだし。リリー・フランキーは立ってるだけで、ダメな奴ってわかるし。

 同じシナリオでも、この役者さんたちでなければこの物語は表現できない、と思わせるものだった。

 「家族」で海に行き、砂浜で戯れる。この「家族」がもっとも輝いた一瞬だが、それをつつがなく続けることが何でこんなに大変なのか。何がそれを壊していくのか。壊れるのではなく、時が進むゆえの必然かつ避けられない変化なのか。フィクションという虚飾をはがしたら、誰もが画面の中の誰かではないのか。

 重くて素敵な映画だった。