時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

無双直伝英信流 居合兵法 中伝 「浮雲」が左足の外側に斬り下ろす理由

 「浮雲」ほど動作の意味がわからない型はない。と個人的に思う。立膝で横一列に並んで座っている状態で、一人挟んでその隣の人物が、刀の柄を取りに来たので、立ち上がってそれを避け、邪魔になるので隣に座っている人物を柄で追い払い、柄を取りに来た人をその場で抜き付けてやっつける、というのである。

 立膝、というのは、正座して右膝だけを立てる居合独特の座り方である。この座り方だと、左右の膝を寄せることで身体に浮きがかかり素早く立ち上がることができる。つまり座っている姿勢から即、臨戦態勢に入れるのである。

 そんな座り方をして腰に刀を差した人が横にずらっと?並んでいて、すぐ隣の人ではなく、隣の隣の人が隣の人の前を通って柄を取りに来る。なんでそんなことを、と思うし、この隣の人は、いきなり左右でもめごとが起こって何事!と思ったら、邪魔だ!と柄で頭を小突かれてあたふたとその場から這って逃げる。のか転がるのかわからないが、いずれにしても巻き込まれた気の毒な人なのだ。で、柄を取られそうになった人は、その場で、刀を抜き放って相手の肩口に斬りつける。そして斬りつけた刃の峰に手を当てて引き倒し、振り上げた刀で横たわった相手の腰に斬りつけてとどめをさす。このとどめの一撃が、型では立てた左ひざの外側に斬りつける、となっているのだがこれがやりにくい。左ひざの左に斬り下ろすのだから上体がねじれるし、横たわった相手の腰を斬るのだから刃は通常の斬り下ろしよりも地面に近いところまで落とさないといけない。といっても刃先で地面を叩いてはいけない。初心者がよくやるのだが、膝をついた状態で力いっぱい刀を振って、床を叩いてしまうのだ。これは誰が見ても理屈抜きにかっこ悪いので、居合をする上でもっとも避けたいミスである。

 さて、ここでポイントとなるのが、床ぎりぎりまで刀を振り下ろす際の技術である。上体が前のめりになったり、肩があがってしまったりしないためにはどうするのか。

 私が習ったのは、手の内の使い方である。手の内というのは柄の握り方のことで、通常よりも深く握ることで切っ先を下げる。柄を握る際は、両手で雑巾を絞るように、といわれるが、雑巾を絞り切った後、さらにもうひとひねり、ぎゅっと握る感じ。そうすれば腕や肩の動きはそのままで切っ先だけが下がる。

 「浮雲」の次の業は「嵐(おろし)」といって、これも似た設定なのだが、最後の動作は浮雲同様、引き倒して横たわった相手の腰を、今度は両ひざの間で斬り下ろす。この動作は「浮雲」の左膝の左側で斬るのと比較すれば圧倒的に自然な動作でやりやすい。

 この型の並びを見ると、まずは「浮雲」の不自然な姿勢で深い斬り下ろしを体得すれば、次の「嵐」の自然な斬り下ろしはなんなくできる、という、順を追った手の内の使い方の修練法なのではないか、という師匠の解釈も、さもありなんと納得できる。

 

 そもそも「浮雲」という型は、立ち上がり、両足先を交差させた状態から足を裏返しながら斬りつけるという動作が特徴で、数ある型の中でももっとも難しいと個人的には思っている。つまりは座布団1枚分もない30センチ四方くらいのスペースから一歩も出ないで、強い斬撃を行うことはできますか?という問いなのである。たとえば、「気を付け」のように両足をそろえて立った状態から、自分の腰のあたりにある相手の肩口に刀を抜き付けるのである。相手も立っていたら両足をそろえて斬る、というだけなのだが、相手は中腰か尻もちをついているのか、そんな体勢だから、低い位置を斬らなければならない。これをバランスを崩さず、しかも一刀で倒せる力強さでやってみてください。という「お題」なのだ。この「お題」に関する「解答例」が、「浮雲」という動作なのである。

 ここで型を「解答例」と捉えれば、その動作を細かく検証することで、「お題」を出した側の意図や、この動作をすることによる身体操作や鍛錬上の「目的」が見えてくる。逆に型を「正解」と捉えれば、モデルをなぞりモデルと違わぬ動きをすることが「目的」となる。

 さてこの「浮雲」、連盟主催の演武会などの多くの道場が集まる場で一斉に行えば、まさに千差万別、同じ道場の門弟同士でも全く違っていたりする。それは、それぞれの個性や考え方によって動作の解釈が異なっている、というよりは、皆同じようにやろうと思ってやっているが、そうなってない、という現象なのだ。それだけ不自然な動きを要求されるのだ。どうやら「浮雲」は、そうとうに深い謎を秘めているようだ。「浮雲」によって古の剣術家は何を鍛えさせ何を伝えようとしたのか。そういう視点で居合の型を眺めるのもなかなかに興味深いものなのである。

 

真夏のような晴天の日、オリックス対広島の2軍戦を観戦した。

 近隣に「くら寿司スタジアム堺」という野球場ができて、オリックスと広島の2軍の公式戦が行われるというので行ってきた。球場は、まだ出来たばかりで、本来は昨年、こけら落とし興行として行うはずだったカードだったそうだが、コロナで中止になり、ようやく今年実現したのだそうだ。

 入場料は前売りで1000円、当日1200円。

 ウェスタンリーグを観に行くのは初めてなのだが、近いし、新しくできたばかりの球場ということで、球場見物がてら観に行った。とはいえ、同行したファミリーは広島ファンなので、一応応援グッズは準備したが、はたしてどんな雰囲気なのか。球場見物目的の人が多かったりして、応援グッズなんか持っていても浮いてしまうんじゃないか、とか少々不安も持ちながら球場に行った。

 が、そんな心配はまったく杞憂だった。試合開始の1時間20分前に着いたのだが、球場前では当日券の販売を待って並んでいる人がいるし、スタンドには前売りのお客さんがけっこういて、しかも3塁側では広島のユニフォームを来たファンがいっぱいいて驚いた。もちろんオリックスファンもたくさんいるのだろうが、広島は赤いからやたら目立つ。赤い人がいっぱいいる。

 グラウンドでは選手が練習中で、持参したおにぎりを食べながら練習を眺める。両翼100m、センター122m。新しいだけにきれいな球場で、なんせスタンドから選手が近いのがいい。

 ボールを受けたときのミットの音や、打球音など、さまざまなリアルな音が身近に聞こえる。

 

 この日は、試合が始まっても鳴り物や声援はコロナ対策でNGで、拍手のみと規定されている。大阪ドームや甲子園なんかに行くと、試合そっちのけで、応援団に仕切られて選手の応援歌を歌ったり、手拍子したり、コールしたり、ウェーブしたりと、いろいろやらされて、しんどいことも多いので、応援の強制もなく、自分のペースで静かに観戦できるのはありがたかった。

 試合の進行は、場内アナウンスもあれば、イニングの交代時にはBGMが鳴らされたり、それなりにショーアップもされていて、しかもそれもほどほどなのがまた良かった。

 エキサイトしたい人には物足りないのかもしれないが、休日の半日を、スタンドでのんびり野球観戦する、というなら2軍戦もいいかもしれない。中には怪我なのか不調なのか、そこそこ有名な1軍の選手も出て来たりする。

 球場は、飲食可能だが、売店ではこの日はイベントの試飲サービスをやっている以外に、特に何も売ってなくて、球場内にあるのは飲み物の自販機くらいなので、球場の外の屋台でビールとたこ焼きを買った。半券があれば再入場できるのだ。球場内では、オリックスと広島の球団グッズを売るコーナーが出ていた。

 「くら寿司スタジアム堺(原池公園野球場)」は、プロ野球で使用される予定は少ないようだが、関西独立リーグの堺シュライクスや高校野球の大阪予選、社会人野球などに使用されるようだ。

 この春以降は、チャリ散歩のついでに立ち寄って、ふらっと野球観戦ができたりするのかもしれない。ちなみに堺シュライクスのユニホームは、南海ホークスのに似てるなぁ、と思ったが、やはり南海ホークスをオマージュしてデザインされたそうだ。

 堺の中百舌にはその昔南海ホークスの2軍の練習場があった。中百舌鳥駅から、1軍の公式戦で使われた大阪球場があった難波まで、南海高野線で20分ほどだが、この20分が選手にとっては長い長い道のりだったりしたのだろう。

「報道ステーション」のCM動画が炎上したとか

 ちらっと見てみたのだが、でもってあくまでも個人的な感想なのだが、

 20代後半から30代前半と思われる平凡なOLさん風の女性が、カメラに向かってなんだかんだと楽しそうに雑談を始めるのだ。カメラに向かっての一人しゃべりなので、視聴している人が話しかけられている風な映像だ。で、あれこれと雑談している中に、ちょこっと時事の話題が入ってくる。それを聞いて「こいつ報ステ見てるな」と字幕が入る。これで30秒。

 この女性のセリフが、今日会社に先輩OLが赤ちゃんを連れてきた、とか、化粧水を買った、という「あるある」な、たわいない話題なのだが、その中に今時ジェンダーをスローガンにしている政治家は古いとか、国の借金減ってない、とかの話題をぶっこんでくるので「こいつ報ステみてるな」と聞き手が思うという構成である。

 

 これをドラマの1シーン、あるいは、寸劇としてみたら、何を感じるか。素直に感じたのは、普段コスメとグルメの会社の愚痴くらいしか話題がなかった彼女が、いつもと同じ調子で雑談しているのに、その雑談に、いつもと違って、時事ネタがさりげなく挟みこまれているのを聞いて、聞いていた側、(こいつ、見てるな、という口調からしてちょっと年上の彼氏なんだろうか)が「時事ネタに詳しくなるなんて、こいつ賢くなったな。さては報ステ見てるな」と思ったということだと思う。そんな風に感じた。

 もしそうだったとしたら、この俳優さんに体現されている世間の2~30代の女性たちは「バカにするな」と怒るべきだと思う。

 

 さらに勝手な想像を書くが、この女優さんには、演出の方から、セリフの中で時事ネタに触れる部分も、先輩が赤ちゃん連れてきた話題や、化粧水買った話題と同じ調子でしゃべってくれ、という演技プランが示されたのではないだろうか。絶対そこだけ浮いたような話し方や表情にならないように、雑談部分と同じ調子で、と。そうすることで、いつもの愚にもつかない雑談に付き合ってる彼氏が「あれっ」と思うわけであり、おっと賢くなったな、と思うわけである。「かわいいだけじゃなくて、かしこくなったな」というまさに上から見下ろした男性目線である。

 

 だとしたら、それこそ五輪がらみの女性蔑視発言で世の中が敏感になってるときに、左寄り気味の報ステがこれを出すのか、とその鈍感さに笑ってしまう。

 

 観れば賢くなる、というアピールをしたいなら、街でちゃらちゃらしている男子高校生か大学生あたりにバカ話をさせ、その中にちょろっと時事ネタをしゃべらせて「おっ、どうしたこいつ」と思わせて、「実は報ステを見て時事に関心持ちました。ひそかに勉強もしていますよ」というオチにしたら誰も怒らなかったのではないかと思うのだが。

 

 でも、広告の目的から考えれば、広告のターゲットは2~30代の女性。視聴者層としてこの層を取り込みたかったんだろうなぁ、と思う。この層が見てくれれば視聴率が上向くという分析結果が出たのだろう。高校生や大学生の男子にアピールしても広告効果、つまりは視聴率アップは期待できないという考察なのだろうな。

 だったら、それこそ会社の会議の場面で、えらそうな昭和のじじいが、自分だけしゃべってろくに参加者の意見も聞かずしゃんしゃんで議事を流していく中で、2~30代女性の会議参加者がさっと手を挙げて、立て板に水のようにじじいを論破して、視聴者をスカッとさせた直後に「報ステみてるな」だったらどうだろう。

 これだと誰も文句は言わないだろうし、広告のターゲット層の女性にも好感してもらえるかもしれない。じじいの横暴にうつむくだけで声も出せない情けない男ども、の姿を一回なめておいて、そこからヒロインを立てれば、より効果は高くなるかもしれない。

 あっ、そもそも「報ステ」を見て賢くなるかどうかは知らないが、そう思ってもらうための宣伝広告なのだからそういう文脈になる。

 

 あくまでも個人の感想です。なんかこことは違うところを攻撃している意見も見たけど、人間、同じものを見ても食べても、感想は人それぞれなので。

 いずれにしても相手がわずかでも隙を見せたら、突っ込むぜー、攻撃するぜー、正義だぜー、みたいな風潮もなかなかにしんどいものだ。

なりたい職業の第1位「会社員」はコロナの影響?

 小中学生に聞く、昔からあるアンケートだが、1位が「会社員」になったそうだ。昨今はyoutuberなんてのが上位に入ってきて時代の変化を感じていたが、ここへきて「会社員」。

 「会社員」って職業じゃなく雇用形態のことで、その勤め先の「会社」なるものがやってる事業は多種多様だし、その会社の中で「会社員」に割り当てられる仕事も多種多様なのである。

 これはやはりコロナ禍でのリモートワークの影響なんだろうなぁ。「めっちゃ楽そう。コロナでも給料入ってくるし」とか思われたんじゃないだろうか。

 私の知り合いも「リモートさせられて会社に来るなと言われている。けど、メールチェックとズーム会議くらいですることないから、朝10時からビール飲むようになってしまって肝臓の数値が悪くなった」とかいっていた。その後リモートをやめて通勤するようになったら数値は元に戻ったらしいけど。また別の知人は「リモート中のチャレンジしたいことができた」というので、何にチャレンジしたのか聞いたら「散髪」だという。リモート勤務の平日の午後あたりに散髪屋に行ったそうで、それがぜひやってみたかったこと、なのだそうだ。冗談ではなく本気だ。軽く興奮しながら教えてくれた。ええおっさんのくせに。

 

 ふーん。昔「サラリーマンにはなりたくねぇ」と誰か歌ってたが、その「サラリーマン」自体も「給料をもらって生活している人」ってことで、「サラリーマン」という職業があるわけではないのだが。

 歌にするほどなりたくなかった「サラリーマン」とは、ねずみ色の背広を着て、ネクタイを締め、似たような髪形をして、決まった時間の満員電車の同じ車両に同じドアから乗って通勤する人たち、くらいの認識だっただろう。その灰色のサラリーマンたちが「会社」に着いてからどんな仕事をしているのかは、みんな知らずに歌っていたと思う。

 そんな「サラリーマン」は、束縛の代名詞で、長らく家庭や学校という束縛の中にいて、卒業してもなお、生活していくために制服を背広に着替えて新たな束縛の中に身を置くことの閉そく感にさいなまれた昔の少年たちは、夜の校舎で窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走りだしたり、したがったのかもしれないのだ。まぁ、ほとんどの人はそんなことを思うだけでしないから、したようなことをいう人をカリスマにしたてたのだと思うのだが。今は「うっせぇわ」か。時代が変わっても、こういうところは同じかと思って歌詞を見ればそれこそ「会社員」の愚痴みたいで、なんかせこさを感じてしまった。 

 そんなことはいいのだが、なんというか小中学生が思う「なりたい職業」については、やはり「かっこよさ」とか「あこがれ」がベースにあって欲しいなぁ、と思ってしまう。

 医者、看護師、パイロット、消防士、警察官(刑事)、教師、お花屋さん、ケーキ屋さん、などなど。

 あんなに忌み嫌われた「会社員(サラリーマン)」が、たぶん楽そうなのと安定してそうなのを理由に第1位になってしまうのは、なんとなく世の中の希望のなさの現われのようで残念な気がしてしまうのである。

 とはいえ、リアル会社員は、相変わらず保身優先で寄らば大樹と心得て生きているのだから、子どもだけに、夢だの希望だの求めてみてもしょうがない。それこそ「うっせぇわ」だわ。

みんな文春は買ってるの?

 週刊文春の記事の活躍がすごい。どうやって記事を集めているのだろう。 芸能人の不倫ネタとかはともかく、議員や官僚の汚職ネタなんかは、警察や検察の領分かと思うのだが、リークかな?それにしても労力もコストもかかっているだろうに。

 最近気になったのは、これだけの活躍をしている週刊文春だけど、雑誌自体はみんな買ってるんだろうか、というところ。文春も売れるためにやってるんだろうから、出した記事によって世間をあっといわせても、仮にそれが権力者の悪事を暴いて世直しのきっかけになったとしても、売れなきゃしょうがないなぁ、となったときに、どんな行動に出るんだろうか。なんか気になる。というのも自分に週刊誌を買う習慣がないから。

 電車の吊り広告を見て、スマホをこすって、ニュースサイトやまとめサイトを見て、どんなふうに世間が騒いでいるかをテレビのニュース番組で見れば十分なので。

 

 あと文春つながりで昨今話題になったオリンピックの開会式の件。なんでも1年前のグループラインだったそうだ。これが本当にブレストの場面だったら、ブレストの基本ルールは、出されたアイデアに対して否定したりネガティブな反応をしないことにある。何かアイデアを出して「そりゃだめだ」っていわれまくったら、誰もものをいわなくなるから。なのでこの話題のラインのように、すぐに反論できる場であるのなら、これ、ブレストじゃなく、ブレストの後の、決めに行く会議だったのかもしれない。

 どっちにしても、地球規模のスポーツの祭典で、全世界に向けたセレモニーを作ってるんだろうに、ダジャレレベルで目先のウケを狙っただけのしょうもないクソ案だという感想には賛同する。女性の容姿に対する差別的なー、とか以前に、単に、「くだらねぇな」「いや、おもろないでしょ」「世界中に見せて誰が笑うねん」「そもそもダジャレレベルの笑いを求める場なんか?」というだけの案だと思う。会議メンバーに却下されて良かった。やれやれである。

 

 でもこのLINEの画像が出てくるいきさつを想像する中で、東京オリンピックについて、本当のところはいったい何がどうなってるのだろうか。中止したらかえってお金がかかるとか、開催や中止にまつわる利害についてもいろいろなことがいわれているが、そのあたりはなんで出てこないんだろう。そこまでのネタがないのか、あるけど出せないことなのか。

 一番知りたいことは、誰もいってくれないなぁ。

500円のヘッドホンの接触不良を歯磨き粉で修復した話

 いつもたいへんお世話になっている某100均で、ヘッドホンを500円で買ってみた。以前300円で買ったイヤホンが思いのほか良かったので、今回も大丈夫じゃないかと思ったのである。なんでヘッドホンがいるのかというと、お茶とおやつをいただきながらタブレットTverGyaO!の動画を見るときに、イヤホンだと、たとえばピーナッツをかじる音とかが耳の中に響いて邪魔になるのである。ヘッドホンだとそれがないので、おやつを口にしながらだらだらと動画を楽しむために買ってみた。

 で、さっそくにヘッドホンで動画を見ようとしたのだが。

音が出なかった。ジャージャーと雑音だけがしている。

???となって、イヤホンジャックへのプラグの挿入が甘かったのかと入れなおして見たら、雑音の向こうからかすかに音が聞こえる。イヤホンジャックの中でプラグを回してみたところ、ジャージャーいう雑音の中、音が右に行ったり左に行ったり、突然大きく聞こえたりとやんちゃな聞こえ方をする。いきなり断線?これははずれを引いてしまったようだ。

が、パッケージもレシートも捨ててしまったし、もうガチャガチャではずれを引いたと思って、あきらめようと考えた。腹立つけど、これも100均の楽しみのひとつだと気持ちをなだめた。

 が、やはりあきらめきれないので、「ヘッドホン」「断線」とかで修理方法を検索してみたが、半田ごてを使う方法とかが紹介されていて面倒くさい。100均で500円のヘッドホンの修理のために半田ごてまで買うのはネタにするにも手が込みすぎだ。

 で、まじまじとプラグを見ていて、どうも汚れてるような気がしてきて、布でプラグを拭いたり、食器洗い洗剤で洗ってみたりした。そうすると、最初よりは幾分ましになった気がする。

プラグの汚れによる接触不良なのか。

金属についた汚れに対して、拭く、洗う、の次は磨く、かな。

金属を磨くのに使えるもっとも手軽な家庭用品といえば歯磨き粉である。歯磨き粉には研磨剤が入っている。ママチャリのバンドブレーキがキーキー鳴くときも、バンドとドラムの間に歯磨き粉をつけて対処したことがある。それを思い出してヘッドホンのプラグを歯磨き粉で磨いてみた。プラグにほんの少し歯磨き粉をつけて、くりくりくりっと指で磨いて、ティッシュでぬぐう。

 そうしておいて、イヤホンジャックにプラグを差し込んで、音を出す。う~ん。まったく雑音がしなくなった。イヤホンジャックの中でプラグをぐりぐり回しても、音があっちにいったりこっちにいったりしない。

どうやら原因は断線ではなくプラグの汚れで、歯磨き粉で磨いたら直った、ということらしい。不良品にあたったのか。そもそもそういう作りなのか知らないが。

この「やられ感」は、昔2穴パンチを買って使用一回目でハンドルが折れて、「この穴、一個50円やで」と泣いた記憶があるがそれ以来かもしれない。

300円イヤホンがいい出来だっただけに、ちょっと残念な気がした。

その後も雑音や音の途切れもなく聞けているが、音質も300円イヤホンと比べて劣っている。全体に、音がこもって聞こえる。300円イヤホンと聞き比べたらその差は明らかだった。

 とはいえピーナッツかじりながら動画を見てもポリポリいう音が耳に響かない、という当初の目標は達成できた。まぁ、500円やけからね。耳が当たるところのクッションは柔らかくていい感じ。そこに注力した商品ってことやね。おやつ食べながらだらだらとネットの動画を見るときには使えるでしょう。

中村雅俊さんと青春と着物とパーカー

 テレビドラマを見ていたら、久しぶりに中村雅俊さんを見た。中村雅俊さんといえば、我々世代にとっては青春ドラマの巨匠である。「青春」なんてもしかして死語?

 学園ドラマの教師役でもおなじみだった。個人的には、松田優作さんと共演した「俺たちの勲章」が好きだった。オープニングの曲や、挿入歌である「いつか街であったなら」なんかは、性懲りもなくまだカラオケで歌ったりしている。

 その雅俊さんが「ウチの娘は彼氏ができない」というドラマに和菓子屋の店主の役で出演しているのだ。もちろん最近でもいろいろなドラマにも出ておられたのだろうが、私としてはお見掛けするのは久しぶりなのだ。もう70歳らしいのだが、なかなかに若々しく、老人という感じはしない。相変わらず、暖かい人柄がにじんだ風情、声やしゃべり方など、なつかしいなぁ、と思って見ているのだが、この和菓子屋の店主の服装が、和服の下にパーカーを着ているのだろうか、着物の襟からフードを出して着ていて、それがなかなかいい感じなのだ。もちろん似合ってるというのもあるのだが、和服にパーカーという組み合わせそのものが違和感がなく、合っている。

 それでちょっとネットで検索してみたら、出てきた。和服のパーカーを使ったコーディネート。「パーカー イン 着物」といって令和時代のコーディネートだそうだ。勢い込んで買ったものの、タンスの肥やしになっているデニム着物で試してみようか。

 けど、あまりこういう恰好をしている人を街では見ないな。したい人はいると思うけど、ネックはトイレかな。慣れればいいんだろうけど、急行事変が起こってあわてて個室でバタバタしている姿を想像すると、おっくうになって部屋着で終わってしまう。けどまぁ、部屋着から始めよう。

 ここまで何もいいことがなかった令和だけど、せっかくなので令和時代のコーディネートというのを遊んでみるのも一興かと思う。

読書メモ ちょっと驚きの読書体験 「流浪の月」 凪良ゆう

 2020年本屋大賞受賞作ということで前から気になっていたが、ようやく手にした。冒頭から最後まで、心が痛い、というか、ひりひりしっぱなしの、なかなか衝撃的な読書体験だった。かといって決して心が深刻に重くなるという風ではない。なんとなく一気読みしてしまったが、一気読み系の本でよくあるように、ハラハラドキドキのサスペンス感に追い立てられるようにページをめくるのではなく、淡々と読みすすめられるから、しんどくはならない。そういう点でも不思議な読後感だった。

 

 そもそも本屋大賞っていうのは書店員さんたちの投票で選ばれるということで、おもしろい本を見つける、という点ではかなり当てになる賞だと勝手に思っているのだが、この本に賞を出したのだからやはり本屋大賞は当てになる。

 

 「流浪の月」については、あちこちの書店で平積みになっていたので表紙はよく見ていたが、帯の「本屋大賞受賞」という以外は、予備知識ゼロで読んだ。普通は書店で手に取って、帯のコピーをやら袖のあらすじやら、ネット検索して読後感想を確かめてみたりするのだが、この本についてはまったくそういうことをしなかった。理由は特になく、あまりにもよく表紙を見かけるので、それだけでお腹いっぱいになっていたのだと思う。「つまり売れてるってことはよくわかった」という風に。なので、なんとなく敬遠していたのだが。

 

 ありえなさそうに思えるが、さほど無理せず受け入れてしまえる。登場人物の感情に寄り添っていける、というような不思議な感覚だった。

理学療法士を目指したF君の話

お題「#この1年の変化

 2020年の就活をコロナで台無しにされた大学4年生も多いのではないか。たとえば公務員志望で、大学内で予備校講師を招いて行われる公務員試験対策用のけっこう高額な有料講座を受講していた学生も多いと思うが、講座の開催そのものもコロナの影響で中途半端になり、かつ公務員採用試験が、本来の公務員採用のための問題ではなく一般企業が行う一般常識の問題に変更されたという。その方が試験の時間が短くて済む、とか、同じく苦境にあえぐ民間企業希望者にも門戸を開くため、とかいう理由も耳にしたが、いやいや行政職を目指して勉強してきた学生はどうなんねん、という話である。

 本当に多くの人がコロナによってダメージを被った。まさかの1年以上にわたって。それでも暴動も何も起こらず文句言いながらも政治家の指図にしたがう国民性は…、というか、どっちかというと政府というより鴻上尚史さんのいう「世間様」に従っている結果なのかもしれないが、いずれにしてもやけっぱちになってあちこちで暴動がおこったり、ということもなくなんとか耐えている。

 

 そんな中、就活で割り食った学生の話を聞いていて、ふと思い出したのが、高校3年の時に同じクラスだったF君のことだ。当時は共通一次試験なるものが導入され、学生は自身の偏差値の増減に一喜一憂し、我々のような、さほど成績優秀でもない中くらいのランクの高校生であっても、少しでも名のある、偏差値の高い大学に進学することが当然の目標だった。学部なんてなんだってよかった。世間的にいわれる大学の順位の中で、少しでも上の大学に入れればそれでよかった。

 大学の順位は予備校あたりがご丁寧に順位表を作ってくれており、たとえば偏差値がいくつだと、〇〇大学の法学部は無理だが、社会学部なら引っ掛かりそうなので社会学部も受けておく、みたいにして受験する大学や学部を決めていた。大学に入ることが目標なので、入って何をするかなんて考えていない。名のある大学に入れば、名のある会社に入れて、終身雇用と年功序列で生涯安泰が保障されると誰もが思っていた。学部ですらどこでもいいと思っているんだから、どういう会社に入ってどういう仕事をしたい、などというビジョンも当然ない。

 そんな状況が当たり前で違和感すら覚えなかった高校3年のとき、私よりもクラスで成績が上だったF君が大学を受験せず専門学校に行くという。聞けば、理学療法士の資格を取るのだそうだ。我々はリガクリョーホーって何?と戸惑って、F君に、そんなことをいってないで、大学を受験しろと説得しようとしたりした。F君はお母さんが病気かケガで長く入院していて、リハビリの先生にとても世話になったので、自分もその道を目指すのだといった。そういわれるともはや何も言えない。もったいないことだと思った。そう。この話を聞いて「そのために大学進学をあきらめるとはもったいないこと」と我々は素直にそう思ったのである。

 

 そのことが、しょーもない思い込みだったことは、もぐりこんだ大学を卒業して、もぐりこめた会社に就職してすぐに思い知らされた。目的もわからないまま課せられるノルマを果たそうとあがくだけの日々を過ごしながら、医療の専門職になったF君は、今頃どういう日々を過ごしているんだろうかと考えた。もちろん、理学療法士として組織に所属して給料をもらう以上サラリーマンであることは同じなので、上司や部下や同僚との関係や多職種との関係など、意に沿わないことや苦労も不満もあるとは思うが、少なくとも「自分の仕事はリハビリテーションで、患者の不自由になった日常行動を取り戻す手助けをする」という一点に関しては揺るがないだろうし、スキルを身につけることで、よりスキルが行かせる施設に変わったり、新たな手法の開発や研究をしたり、同じく理学療法士を目指す人たちを教員として指導したり、という多様な選択肢も得ることができる。

 

 可能性しかなかったような18歳の頃に、深く考えもせず、偏差値上位の大学に入りさえすればそこがゴールだ、と思い込み、それ以外の選択肢があることにすら気づかず、気づいていないのだから探しもせず、気づく縁もなかった私の方こそ「もったいないこと」だったのではないかと今なら思う。

 残念ながらか、幸いに、かわからないが、大学を卒業しても結局生涯安泰な会社などには縁がなく、世の中をうろうろしながらなんとか生きてる現状に後悔はないのだが、選択肢を知る、あるいは選択肢を見出す、ということは、いくつになっても大事なことなのだと思う次第である。

ニュータウンの桜に想う

 ニュータウンが街開きして50年余りがたつらしい。近隣で生まれ育った齢84の母親に言わせると「何もない、ただの山」だったところを造成し、公団を建て、宅地を売り出した。一から計画して作り出した街だけあって住宅街には緑の多い公園が準備され、遊歩道が縦横に走っている。公園のたくさんの桜は、きっとジオラマを作るように、配置を計算しながら丹念に植えられていったのだろう。その桜も成長し、枝ぶりもよくなって、ここ数年は桜の名所となっている。

 

 満開の時期には遊歩道を左右から覆うように花の枝が伸び、薄桃色の花びらで空を隠す。春風が吹くと目の前で花びらが渦を巻き、やがて地面をピンクに舗装する。眼に入るものすべてが桜色に染まる。

 そんな春が当たり前だったのだが、2018年の9月だったか、大きな台風が来て桜の幹を何本も叩き折ってしまった。密集していた桜の大木は歯抜け状態になり、天を覆っていた枝は折れ、2019年の桜の時期は何やら寂しい色になっていた。2020年はどうだったか。まばらになってしまった桜は、それでもしっかりと花をつけていたが、桜を愛でる人はいなくなった。桜の下にくつろぐ人も、弁当を広げる人もいなくなった。この年は花をつけた桜自身が寂しそうに見えた。

 

 まもなく桜の時期が来る。今年は、台風で傷つきながらも立っていた桜がけっこうな本数切り倒された。なんでもソメイヨシノの寿命が60年といわれていて、ぼちぼち引退しなきゃいけない古木がたくさんあるんだそうだ。造成して一斉に植えたんだから、一斉に歳を取る。台風を耐え忍んだ古木も、寄る年波には勝てず引退を勧告されたようだ。幹にそのような役所の文書が貼り付けられていて、しばらくしたら古木が切り倒され、まだ白い切り株の回りに、丸太になって積まれている。

 そのそばを通ると、とてもかぐわしい香りがする。桜の香りだ。生きている木からはこんな匂いはしない。花からもそんな匂いはしない。ただ切り口から生き物のような濃い匂いがしている。

 

 「この丸太、どうするんやろ。チップにして燻製屋に売ったらええのに」

 

 かぐわしい香りをかぎながら限りある生命の無常を感じつつ、真っ先に思ったのはそんなことで実に申し訳ない。

 今日見たら、切り株は掘り返され、土が入り、新しく、細い桜が植えられていた。花が咲くまでまだしばらくかかるであろう、街の未来を担う新人君だ。子どもたちが、小さい子供の手を引いて、いずれ、君を見上げる日が来るだろう。君の足元で弁当を広げるかもしれない。その時を、私も楽しみにしているから、君も楽しみにしていて欲しい。

 さて、2021年の桜は、 きっと例年通り当たり前に咲くのだと思うが、それを見上げる人間たちの心境はいかがなものなのだろう。

 やはり、散歩がてらに、遠慮がちに見上げる程度になるのだろうか。