時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

七草がゆをたべました。

 草の苦みみたいなのが口に胃に心地良いし、これはやはりおかゆに入れて朝食べるものだな、と毎年思う。昔の日本人の知恵ですね。この七草というのも、この冬の時期に身近に手に入る緑だったんだろうな。雪解けのころの山菜の類もそうだが、特に雪に閉ざされるような地域では、新鮮な緑を食すことが相当貴重だったんだろうと思う。苦みがあって味覚として決しておいしいものではないと思うのだが、「春の訪れ」というソースがかかって、舌だけではなく全身で感じる美味なのだろう。

 昔の日本人といえば「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己著(ちくま文庫)という本を読んだ。1860年というから今から160年ほど前のこと。和歌山の紀州藩から江戸藩邸に単身赴任した武士の日記を著者が読み解いて解説してくれる本だ。この日記、決して幕末の世を後世に知らしめるとか、時代の考察を史書として書き残す、とかではなく、本当にただの日記なのだ。大事にしていた昼飯用のおかずを同居している叔父に食われてむかつく、みたいなことが書かれている。仕事は暇なようで、ぶらぶらと江戸の見物をして、食べ歩き、飲み歩いて気楽そうだ。特段大金持ちということでもなく、割とけちけちしていて、魚ではイワシをもっぱら食べていたりする。が、三味線の稽古に通ったり、芝居を観たり、と好きなことにはお金も使っている。

 庶民ではないだろうけど、お殿様でもない、まさに下級武士の生活があけっぴろげに書かれていて興味深い。160年前、というと、うちのおばぁが84なので、おばぁが生まれたときには、まだ80年前だったわけだから、そんなにはるか昔でもない。が、そうはいっても紀州から江戸までは、船も使ったとはいえ、基本は徒歩の旅だったようで、科学技術の進歩でいえばはるか昔の話である。

 この本、著者の語り口の影響だろうけど、読んでいて日記の主の酒井伴四郎さんがとてもかわいい。読んでいて気分がゆったりとしてくる感じ。お江戸の街並みをちょっと覗いてみたくなる。

 

 さて、末尾になりましたが、あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

LONDON DRY GINにはまる。

お題「#買って良かった2020

 「ギムレットには早すぎる」

 今年の夏、内田裕也氏のアルバム「さらば愛しき女よ」をタワーレコードのお取り寄せで購入した。かつてカセットテープ時代によく聞いていたアルバムで、自分の中でもはや幻と化していた楽曲に20年ぶりに再会できてよろこんだ話は今年の7月25日のブログに書いた。

 で、その勢いでギムレットを飲んでみたくなってネットでレシピを調べてみた。

 DRY GINは癖がないGORDON'sを選び、ライムジュースはそこいらのスーパーで見つけられず、成城石井でようやく見つけたシシリア産の100%を購入。シェイカーの代わりに100均で蓋つきボトルの小さいのを手に入れた。ジンとライムの容量をきちんとはかって蓋つきボトルに入れシャカシャカ振った。シロップがなかったが、甘いお酒は好みではないので使わず、カクテルグラスはないので北一硝子のぐい飲みに注ぐ。アルコール度数きついし、シロップがないからか酸味強いし、でも気分である。十分に堪能した。

 自家製のギムレットを飲み、裕也さんのけだるい歌声に浸りながら、いつかどこかのバーで本物のギムレットを!と誓ったりした。その頃は、9月頃になればコロナも納まると思っていた。

 

 GINについてもいろいろ調べてみたが、手ごろな価格で手に入るBEEFEATERかGORDON’sの2種類に落ち着いた。BEEFEATERの方が、柑橘の香りが強い。松田優作がアルバムHARDEST DAYの中で歌っていたギルビージンはさらに廉価だったが、原材料に香料と書かれていたので敬遠した。またそれまで意識したことがなかったのだが、スーパーのお酒のコーナーでいろんな種類のGINを見ていたらトニックウォーターが売られているのを見つけて、その後はジントニックばかり飲んでいた。トニックウォーターを切らせたら、なにか冷蔵庫にある飲み物で割ってみる。

 というわけでこの夏から、いつものERALY TIMESに代わってDRY GINが酒棚に居座っている。

 

居合術で肩こり対策

 刀を左腰に差して右手で抜こうとすると、これが実は抜けないのだ。だから鞘引きを行う。鞘引きとは、左手で鞘をつかんで後ろに引く行為をいう。右手で抜きながら、左手で鞘を後ろに引くことで、長い刀をすらりと抜くことができる。

 立合いの場合はこれでいい。すらりと抜いた刀を、顔の横あたりに立てて構え半身になれば、これを「八相の構え」という。構えた時の腕の形が漢字の八の字のようになるから、という説もある。この八相は剣術の八相で、殺陣では構えた腕が水平になるまで右ひじをあげるのだそうだ。その方が、かっこよく、強そうに画面に映って見栄えがいいということだ。

 さて居合である。立ち合いではなく、居合わせた相手との攻防だということで、抜きざまに斬る、という動作を求められる。相手は刀を抜いて斬りかかってきている、こちらの刀はまだ鞘の中、という状況で、刀を抜く動作がそのまま斬る動作にならなければいけない。なので刀も鞘から抜ければいいのではなく、鞘から抜けた時点で相手を斬るだけのスピードと力を持っていなければならない。そのために重要になるのが前述の鞘引きなのだ。たとえば、空手でいう正拳突きの場合も、右腕を突き出すのと同時に左腕を引くことで威力が増すが、それと同じ理屈である。

 で、その鞘引きであるが、ただ握った鞘を腕で後ろに引くだけではどうしても数センチ足りなくなる。なので、足りない分は右腕に頼って引っこ抜くことになる。そうなると刀身のスピードや力は得られない。あと数センチ左を引ければ、右腕で引っこ抜くことなく、ためておいて、強く速い抜き付けになる。

 ではそのあと数センチをどうするのか、というところで、肩甲骨の動きが必要になってくるのである。

 武術の師匠は、腕の末端は肩ではなく肩甲骨だと教えてくれる。師匠の肩甲骨はぐねぐねと柔らかく自在に動く。日常の生活動作では、肩から先は動かしても、肩甲骨を意識することは少ない。なので、肩甲骨は、意識して動かさないと動かない。たとえば、小学生の体育の授業を思い出して「前倣え」をして、その後肩甲骨を開くと指先が数センチ前に出ると思う。次に肩甲骨を閉じると、腕は数センチ後退する。

 抜き付けの場合は、肩甲骨の開きに加えて、若干の腰のひねりや、膝の働きなど、全身各部の細かい働きを一斉に統合させる必要があって、なかなかことばで伝えるのが難しいのだが、正座から片膝立てつつ刀を横に払う、という、結果だけ見ればいたって単純な動作を行うために、実に多様で繊細な身体操作が必要になってくるのである。

 

 とぐだぐだ書いているが、ようするに、居合術には肩甲骨の開閉が必須であるため、そこを意識して稽古をしていると、時に肩こりが緩和されたりする、という経験則である。肩こりの原因にも個人差はあるだろうから断言はしないけど。

 パソコンを使ったデスクワークが多い人で、眼・肩・腰に不調を抱えてはいるが、運動やスポーツが、苦手、おっくう、機会がない、という人は、コスプレ気分でいいのでやってみられてはいかがだろうか。居合道などというと、やってるのはじいさんとおっさんが大半で、80のじいさんが、70のじいさんを叱りつける、60のおっさんは、小僧扱いで叱られもしない、みたいな世界だが、女性の剣士も増えてきている。これが実にかっこいいのだ。たぶん腕力に頼れない分、術としての動きを体感しやすいのではないだろうか。と勝手に思っている。

 

 

 

たばこをやめて早10年。やめられますよ!やめましょう!

 時折、忘れたころに、JTからタバコが1箱届く。PR用のサンプルだけど、市販されているのと同じ20本入りのパッケージである。タバコと一緒にパンフレットのようなものが入っていて、キャンペーンの案内やらなんやらが書かれている。以前はDVDが入っていたことがあった。イメージCMのようなものが収録されていたと思う。かなり以前に、JTのサンプル提供キャンペーンみたいなのに応募して、会員かなにかになっているんだと思う。

 で、先日久しぶりにサンプルが届いたので、職場で唯一の喫煙者に差し上げたのだが、今はそのたばこ1箱が500円するのだという。もらった本人はよろこんでいたが、500円とは。

 

 調べてみたら、2010年10月に410円に値上がりをしているようだ。私は、それを契機にやめようとおもったはずだ。でもすんなりやめることはできず「タバコを買うのをやめた」といって喫煙者に「1本くれ」とたかって嫌がられたりしていた。でも年が明けて、震災があって、4月になったらすっぱりやめることができた。それからもう10年になるが、今はタバコを吸うなど考えられないし、副流煙にも敏感になっている。もはや立派な嫌煙家に成長している。

 

 禁煙に成功した要因に震災は関係ない。そのころ職場にいて、いつもタバコをたかっていた喫煙者が退職してたかれなくなった、というのが原因としては大きいかもしれない。

 

 400円になったときに、400円を30日として、12000円。やめてこの出費がなくなれば、来月から12000円を小遣いとしてあげます、といわれているのとおなじだなぁ、毎月12000円の小遣いは使い勝手があるなぁ、と思って頑張ろうと決意したことは覚えている。が、実際に禁煙に成功したら小遣いを1万円減らされたので、夢はかなわなかったのだが。

 

 自分的にもっとも大きく影響したのは、コラムで読んだのかテレビで見たのか忘れたが、「タバコを吸う人は、自分の意思で吸っていると思っているようだが、ニコチンの作用で脳がそう思わされているだけなのだ」というコメントだった。

 そうなのだ。値上がりしようと、ほとんど税金払ってるんだといわれようと、健康に悪い、肺がんはつらいぞ、といわれようと「それらの喫煙リスクを正しく理解したうえで、俺は俺の意思で、吸うと決めて吸っている」と嘯いていたのだ。

 ところがそうではなく、ニコチンという毒物の作用で脳から放出されるドーパミンなどの快楽物質に支配されているだけだというのである。

 「なんや、そうやったんか…」

 

 自分で考え自分の意志で決めていたつもりだったが実際は薬物にそう思わされているだけだったのだ。

 

 このことがなんだかものすごくかっこわるく思えて、情けなくなって、タバコをやめてしまった。

 

 ちょうどその頃、駅のホームの真ん中にあった灰皿が、駅のホームの端っこになり、ついに撤去されてしまうというようなことが続いていて、街中でタバコを吸いたくなっても、灰皿のある場所を探すのが大変だった。街を歩いていても常に横目で灰皿を探している状態だったのだが、禁煙したら、それがなくなった。「灰皿探し」から解放されたことによる自由度の拡張は、それはそれは大きいものだった。喫煙者時代には思いもしなかったが、浮いたタバコ代よりも、喫煙場所を探さなくてよい解放感の方が勝っていた。飲食店でも喫煙席に案内してもらわなくても、広い禁煙スペースを使える。世の中がタバコを排除する方向に向かう中、非喫煙者はますます居心地がよくなっていく。メリットばかりでデメリットはなにもない。もともと吸っていない人よりも、吸っていてやめた人の方が、あらゆる場面での解放感が感じられて、ニコチン程度のせこい薬物がもたらすドーパミンよりよほど気持ちがいい。

 ある意味、今のような嫌煙社会だからこそ、禁煙することのメリットが倍増しているともいえるのではないだろうか。

 やめたらわかる。これ、めっちゃええやん。

買って良かった2020/ダイソー イヤホンとBluetoothスピーカー

お題「#買って良かった2020

・高音質ステレオイヤホン マイク付 HQ-003 300円

BLUETOOTH SPEAKER(ポータブルタイプ) 500円

どちらもダイソーにいけば現役で売られている。イヤホンはその後、新しいデザインのものも出たようで種類が増えている。

 

 さて、どう良かったのか。それはもう端的にコスパである。ダイソーだから。

以前も書いたが、この300円イヤホンは、今持っている量販店で1000円ほどで売ってるものとくらべて遜色ない、というか、私の耳にはこちらの方が心地よい。

 イヤホンは、失ったり、断線したり、と過去何度か買い替えてきて、消耗品だと思うようにしているのだが、消耗品であれば300円という値段は、魅力的すぎる。

家用、通勤バッグに常備する通勤用、外出用バッグに常備したお出かけ用、と3本も買ってしまった。おかげで「イヤホン忘れた~」ということがなくなった。

 で、先日、前から気になっていたBLUETOOTHスピーカーを買ってみた。

 グラスを片手に、ピーナッツなどつまみながら本を読んだりするときには、イヤホンではなく、スピーカーが欲しい。スマホに入った曲を気の向くままに手元で選べれば便利がいい。ちょっとしたBGMでいいので、そんな音質に期待はしない。音量もほどほどでいい。というわけで「安物買いのなんとやら」になるんじゃないのかという不安を抱えつつ購入をしてみたのだが。

 私が使いたい程度の用途には十分だった。BLUETOOTH接続はいたって簡単につながった。USBやmicroSDも使える。音もこんなものなんじゃないだろうか。ただ、電源を入れたときにけっこう大きな音で「BLUETOOTH MODE」と叫ぶのだ。これの音量調整の仕方がわからない。できないのかもしれない。最初はびっくりした。今でもびっくりするけど。

 もちろん音楽のボリュームは調整できるよ。

 で、これを買う時にびびらされたのが、箱に書いてある注意事項だ。

箱の裏に、こんなことが書いてある。

「使用する前に商品が壊れていないか、部品が取れかかっているものがないか確認してください」

 いや、出荷前に検品しといてくれよ。怖いやろ。

 しかもその下には囲み付きで、「申し訳ございません。生産には万全を期しておりますが…」という文字。箱の中の説明書にも同じ文章。もちろん、この手の断り書きはどんな商品にもついてはいるが、通常は、「生産には万全を期しておりますが、万が一~」という書き出しのはず。のっけから「申し訳ございません」と詫びから入ってこられると…。

 う~ん、どんだけ自信ないねん。

 正直なのか真面目すぎるのか、ほんとにそこそこ壊れてることが多いのか。

 幸いにして私が買ったものは、壊れてはいなかったので、500円は十分に価値のある投資だった。満足している。

 ちなみに、申し訳ございません、の後には、不良品にあたったら買った店で交換する、と明記されているので、買ったら早めに検品しましょう。レシートも保管しておきましょう。

もう一度見たいけど、タイトルも何も覚えていない。エキストラの記憶。

今週のお題「もう一度見たいドラマ」

 下宿が東映京都撮影所の近くだったもので、撮影所の単発のアルバイトとしてエキストラに何度か参加した。同じ下宿の住人に、エキストラ登録している人がいて、朝5時半集合みたいな撮影の時には、彼が下宿生を叩き起こして強制的に撮影所に連行するのだ。連行される側は寝込みを襲われて顔を洗う間もなく撮影所に連れていかれる。ある時は、撮影所に着くなり着物を着せられ、ちょんまげを着けられて、そのままバスに乗って姫路城まで運ばれた。年末大型時代劇「忠臣蔵」の撮影だった。

 というエキストラ体験はまたおいおい書くとして。

 

 その時に、連絡先を仕出し屋さん(エキストラを手配する仕事の人をそう呼ぶらしい)に知らせてあったようで、卒業後下宿を引き払って実家に戻り新入社員として働き始めたころに、突然電話があった。たしか、千里丘の毎日放送のスタジオに来てほしい、ということだった。欠員が出たか何かで大慌てで人を探していたらしい。暇だったので、二つ返事で了解した。年齢や髪形や身体のサイズなどをざっときかれて、会社員の役だから背広を着てきてくれ、といわれたと思う。

 細かいことは忘れたのだが、覚えているのは、毎日放送の実際の社員食堂を使っての社員食堂のシーンで、我々エキストラは、指示されたテーブルに座って、中身が空っぽの丼鉢を渡されて、テーブルの上の割り箸を使って、おしゃべりしながらランチする振りをしろということだった。ただし、本番の声がかかったら、声は出さずに談笑しろと。箸は動かして、食事をしながら。

 我々がそれをやってる向こうでは、これから食事をする社員さんたちがお盆を持って行列に並んでいる。その列の中に、平田満さんがいて、後ろに並んでいる田中好子さんが平田さんに話しかける、というようなシーンだったと記憶している。

 田中好子さんといえば、キャンディーズのスーちゃんである。とんでもない人が同じ空間にいる。平田満さんといえば、何度も映画館に足を運んだ名作「蒲田行進曲」のヤスさんである。見たい。でも見てはいけない。社員食堂にならんでいる単なるOLとサラリーマンを、食堂にいる人全員が羨望のまなざしで見つめているわけがない。

 じっと固まって座ってないで食事をしたり、ちょっと身体や顔を動かしたり、ざわざわしてほしい、というようなことを助監督だかなんだかが言ってくる。「皆さんの丼は空ですけど、皆さんにピントは」あたってないから気にするな、みたいなことをいわれたと思う。

 私の前で私と談笑する相手は同年代の女性で、エキストラに登録するような人なので、少々容貌にも自信があるのだろうと思う。ちょっとした美人だった。

 その美人さんと、テストの間は世間話をしているのだが、本番になってカメラが回ると声をミュートする。でもしゃべってる風で口を動かし、時に笑ったり、テーブルの調味料をさわったり、素人なりに考えて、まじめにつとめた。その女性はずいぶんと慣れた様子だったと思う。

 田中好子さんと平田満さんのお芝居がどんなだったのかは、視線をやるわけにいかないので見えていない。相手の女性は役者さんに背中を向ける席だったので、眼の端にとらえることもできない。それが残念そうだった。

 撮影が終わって、日当をもらう。当時はエキストラも日当がでる立派なアルバイトだった。いまはボランティアエキストラなどと称して日当も交通費もでなくなっている。

 相手の女性とは、日当をもらってスタジオを出るときに廊下でばったりあって、お疲れさまでした、ということで、勘違いでなければ、なんとなく、ちょっとお茶でも、みたいな空気を感じたのだが、なぜだろう。変に意識してあわてて立ち去ったと思う。若さゆえの自意識過剰?。彼女はたぶん自分が背を向けた席になったせいでまったく見ることができなかった俳優さんたちの芝居について聞きたかっただけだったんだろうと思うけど。

 というわけで、お題の「もう一度見たいドラマ」はこれです。でもタイトルも何も覚えていない。女の子と向かい合って口パクでランチしたのは確かに覚えているのだが。

 この番組のオンエアを見たかどうかも覚えていない。見てないのかもしれない。もしかしたらVHSで録画したりしたかもしれないが、もうデッキもないし、ビデオ自体もなんどかの引っ越しで処分されているだろう。

 その後も一度、仕出し屋さんから電話があり、同じようなサラリーマンをやった記憶がある。若いサラリーマン風で、呼んだらすぐくる、ということで重宝されたのかもしれない。その時は川上麻衣子さんがいたように思うのだが…。

 でもエキストラって、いわば「人間の形をした小道具」なので、ここにいてこうしてね、といわれたあとは、ひたすら「邪魔しない」ことが大事なので、小遣いもらえる以外に楽しいとは思わなかった。

 その後、20数年たってから、ひょんなことでボランティアエキストラとしてちょんまげつけてロケにでることになるのだが、その話はまたいずれ。

おばぁはん84歳。三度登場す。

 夜の8時といえば、夕食を終えもっともくつろいでいる時間なのだが、そんな時間に珍しく家電が鳴った。出れば見知らぬ老女の声。最初は間違い電話かと思ったが、聞けば母親の近所に住む友人で、約束した時間に現れず、電話をしても出ず、家を訪ねてみたが不在。少し様子を見ようと思い、夜の8時になって電話しても出ないので、家の前まで来たが、いつもはこの時間には閉まっている雨戸が閉まっていない。電気もついていない。とのこと。

 どこかに出かけて迷子になったか、行き倒れたか、家の中で倒れているか。何が起こってもおかしくない年齢で、かつ、ここのところ小ボケネタを連発しているだけに不安になりかけつけた。

 

 で、居ました。玄関先に。親戚のおばちゃんに車で送ってもらってご機嫌で帰ってきたところとばったり。

 多芸なおばあはんの数多い趣味の一つが木目込み人形作りなのだが、親戚のおばちゃんが孫のために木目込みでひな人形を作ったのを見に来てほしいと誘われたのだそうだ。そのまま晩御飯をよばれて、ご機嫌で帰ってきたらしい。

 心配して損したわ、というような話なのだが、近所のお友達との約束はカレンダーに書き込んであったのにすっかり忘れてしまっていたようだ。こちらは連絡をくれたご友人に平身低頭で、晩御飯をごちそうしてくれたおばちゃんも巻き込まれて謝って、玄関先で双方向型大謝罪大会になっているのだが、張本人はけろっとしていて、「あしたの晩御飯作らんでようなった」などと言っている。

 実は約束というのは、月に一回、地域の老人会の有志で夕食用の弁当を作って近隣の希望者に配ってくれる日なのである。配るといっても食材の実費程度の費用は払うわけだが、配偶者をなくして一人暮らしの老人が多くなっている町内なので、ちょっと手の込んだおかずが何品か提供されるお弁当は、楽しみのひとつになっている。それをもらう日なのに姿を見せないので、心配してくれたわけだ。

 お弁当はお友達が預かってくれているというので「お弁当は明日もらいにいく。晩御飯作らんでようなった」ということになるのである。

 想像した最悪の事態にはほど遠い小ボケネタの範疇なので幸いなのだが。

 ブログが、おばあはんの小ボケ日記になってこないように、こちらも平素の見守りを強化しなければと思う。それにしても友人に恵まれた老婆である。幸せなことよの。

コロナにまつわる「ちょっと聞いた話」

 知人の会社で感染者が何人か出てしまったそうだ。追跡するとほとんどが会食の機会に感染したようだという。会食というのは、ようするに飲み会だ。会社帰り、通りすがりに飲み屋さんを覗けば、たしかに顔が近い。がやがやしているので声も大きくなる。飛沫も飛ぶ。

 

 これも最近聞いた話だが、そこでは職場で共有して使っているパソコンのキーボードから感染が広がったのではないかということだ。キーボードというからには指先からだろう。使うたびにキーボードを消毒するより、キーボードを使った後で手指を消毒する方が効率的かもしれない。

 

 知り合いの医師がいうには、まず感染しないための心得として、指や手にうんこが付いてると思えばいい、とのことだ。うんこがついた手で目をこすったり、鼻くそをほじったり、またその指を口に入れたりしない。その指でつかんだものを食べることもしない。

 そして、手指にうんこがついたら絶対に洗うだろう。洗えばいいのだ。まさに、手指にうんこがついた時と同じようにすればいい、ということだ。

 わかりやすすぎて冗談にしか聞こえないが、そういうことなのだろう。妙に納得してしまった。

その上で面と向かって飛沫を飛ばしながらしゃべる、またその飛沫を浴びる、ということのないように。ということだ。

 

 そして今日、会社帰りに街を歩いていたら、大柄な若者が二人、俺の時は入院して点滴打って~、とか、そんな話をしながら前を歩いていた。聞くともなしに聞こえてくる声によると、どうもコロナの感染体験をどちらも持っているらしい。点滴してもらってすぐ退院したようだ。一回感染して免疫ができたと思っているのか、ふたりともマスクはしていなかった。

 

 マスクの値段は、会社の近くの雑貨屋で、いよいよ50枚190円、という価格になってきた。コロナの直前は、ダイソーが30枚入りを100円で売っていたのだから、そろそろそこに近づいてきた。半年ほど前には、50枚入りを3500円とか4000円で売っていた。靴の専門店が店先の靴を退けてマスクの箱を並べ始めたときには2500円くらいになっていて、そこから2000円、1500円と順調に値が下がり、売り子さんの声が大きくなっていった。今はウレタンや布製のおしゃれマスクも1枚100円程度で売られている。

 第3波、とマスコミが騒ぎ出したころ、ちょっと値が上がった気がしたが、現在は再び値下がり傾向だ。その分、春先ほどのパニックにもなっていない。トイレットペーパーの買占めも起こらない。けどまだまだコロナ禍の真っ只中であることには変わりはないようだ。

コロナで塾をやめないといけない。

 娘がバイトしている塾で、中学2年生の生徒の父親から、コロナで収入がなくなり塾代が払えない、といって退塾する旨、連絡があったという。ある程度の成績がなければ入れない進学塾なので、中学2年でやめてしまってはもったいないのだが、先立つものがなければいたしかたない。親も子も無念だと思う。

 こういう事例を、例え話や噂ではなく、身近に現実として耳にするのは初めてだったので、なにやら背中がぞくぞくとする。

 もちろん、そういう自分自身、賞与も昇給もなく、客は来ず、来ても詰め込むわけにいかず、で、えらい目にあってはいるのだが。

 

 感染も防がなければいけない。医療崩壊はさせてはいけない。けど経済破綻も防がなければいけない。

 この中学生の父親の職業はわからないが、旅行業や飲食店だけが割を食ってるわけではないのに、そこさえ手当しておけば経済は回る、という判断にはどういうシミュレーションがあるのだろう。出歩くな、どんちゃん騒ぎするな、といった手前、それによる影響が大きい業種のサポートをチョイスしたということなのだろうか。が、人の行動を制限することで発生する経済被害はあらゆるものに派生する。影響がないのは役人と政治家くらいだろう。経済疲弊で税収が減れば、増税すればいいだけなのだ。

 

 思えば、肝心なことがブラックボックスになっている。

 クリスマス、年末、正月と、一年でももっともにぎやかな行事が続く時期になったが、さて、これからの1か月。世の中にはいったいどの目が出るのだろう。

 

薄毛には「刈り上げない程度の、長めのソフトモヒカン」

 髪形などを気にするようになった頃、テレビで見るあこがれのかっこいいお兄さんたちは、みんなそろって長髪だった。それが当たり前で、耳が出ているなんてのは恥ずかしいくらいかっこ悪いことだった。

 私の場合は特に、ちょっとしたことで耳が真っ赤になる赤面体質だったので、自分としてはそれをごまかしたい意図もあって、なおさら耳は髪で隠したかった。

 そんなわけで、ロン毛ってほどではないが、生涯髪は耳が隠れる程度の長めで過ごしてきた。

 しかし、いつの頃からか、髪形がまとまらなくなってきて、整髪料を使ってみたり、分け目を替えてみたり、といろいろあがいたのだが、どうも、原因はそんなところではなく、髪質と量の変化の問題だと気付くにいたった。特に量だ。横と後ろは往年の量があるのだが前と頭頂の量が激しく減少しているようなのだ。なので、前髪の長さは一時よりさらに長くなった。スタート地点が後退したので、その分長さが長くなる。少ない量を長さでカバーしようとしたのだ。だがこれは間違いだったらしい。意識して鏡を見ているときは、何とかなっていると思えるのだが、乗り込んだエレベーターの中に鏡があったりして、無意識下でそこに映った自分が眼に入った時の衝撃は大きい。「げっ」と思う。昨今は、リモート会議で、画面に映る自分自身を見て「げっ」と思う中高年が増えているようだ。私の同僚は「ノートパソコンだと下からあおるようにして映るからね」といいわけしていたが、なるほど、なにかにつけ自分を客観視するのは難しいものなのだろう。人というものは、自分のことを誰よりも知らない、というのは本当のようだ。

 

 あるとき、たまたま通りすがりにみつけた会社の近所の1000円カットに行くと、明るく迎え入れてくれたきさくな感じの中年女性の技術者が鏡越しにじっとこちらを見て、やや言いにくそうに「切らせてくれないか」という。「美容室で髪切らんでどうすんねん」という話ではないことはわかったので「薄くなると長いのはダメですかね」と極力明るくいったつもりだが「あ、そういうわけでは…」と。「長目がお好きですか」と聞かれたので「まぁ、若いころからずっと長くしてきたので」というと「じゃあ、あまり極端に印象変わらない方がいいですね」といって、「切っていいですか」と再度聞かれたので、「どうぞ!」とこれもことさら明るく言ってみた。そのやりとりを見ていたもうひとりの技術者も、鏡の中で大いにうなづいていて、「なんか妙なことになったな」と思いながら眼を閉じた。

 もともと散髪の間は目を閉じていて、そのまま居眠りしてることが多い。あまり技術者とだべったりはしない。なので今回も黙々と切られて、仕上がって、眼を開けたら、えらくさっぱりした印象に仕上がっていた。これもありかな、と思った。かなり切ったけど、デザイン的にはそんなに変わっては見えないと思う。と施術者がいったが、もうひとりの技術者は、なんか別人になりましたね、という。

 自分的には、えらく短くなったな、という感じだったが、「別人になった」といわれて、まぁ、この歳で別人になってみるのも面白いかな、と思った。

 「やはり短くする方がよさそうですね」というと、「このくらいの長さに抵抗なくなれば、次は、”刈り上げない程度の長めのソフトモヒカン”ってオーダーしてみてください。美容師はそれでわかります。それで自分が長さに慣れたら、少しづつアレンジしていくといいかも」とのことだった。

 別人になった、といったもう一人の技術者は「うちの旦那もそれにして、もうやめられへんっていってましたよ」と勧めてくる。「モヒカン」ということばにそもそも抵抗があるし、ソフトモヒカンというと、頭のてっぺんだけキューピー人形みたいになってる人のイメージがあるし、なんだかなぁ、と思ったが、次に行った際には言われたとおりにオーダーしてみた。

 で、結果は、扱いやすいので割と気に入っているのである。キューピーさんみたいになるかどうかは、頭頂の毛をワックスなどを使って立たせるかどうか、なので、そのままにしておけばキューピーにはならない。簡単に言えば、短髪なのだが、坊主でも角刈りでもスポーツ刈りでもなく、おしゃれっぽくなる、ようなのだ。おしゃれっぽいかどうかには、土台になる顔や頭の形、薄毛具合などで個人差はでるんだろうけど。

 

 カットにはバリカンを使うのだが、バリカンには12㎜、9㎜、6㎜という既定の長さがあるらしく、長目だと12㎜になるようだ。わりとすぐにぼわっとしてくるのでサイドは9㎜でいいかもしれない。6㎜とかにするとほんとのモヒカンみたいになる、ということだ。

 おっさんの髪形なんか、気にしているのは本人だけだということは重々承知しておりますが、定期的に世話になる割には、ほとんど知らなかった理美容業界の技術や知識に触れることができて新鮮な体験だった。