時速20キロの風

日々雑感・自転車散歩・読書・映画・変わったところで居合術など。

入院患者を体験する

 手術日は週に2日。そこが決まればその2日前に入院して各種検査を受ける。
月曜に受診して、金曜日の手術が決まる。2日前なので、水曜日から入院。
手術の準備のために、血液検査、尿検査、心電図、CT撮影などいろいろな検査を受けます。血圧が180とか、普段と比べると格段に上がっていました。
もともと血圧は低めで、今年の2月の健康診断で130といわれて驚いたくらいなので、びっくりです。常にある痛みに耐えようと交感神経が優位になり血圧が上がることがあるのでそれだろう、と看護師さんが言ってましたが、入院中血圧は下がらず、頭が痛くないか、と何度も看護師さんに聞かれました。

 骨折部分の痛みは常にありましたが、痛み止めが効いたのか、のたうちまわる、という痛みではありません。どちらかといえば鈍痛です。腕の角度によっては痛みはほぼなくなりますが、少し腕が動くとピリッと痛みが走ります。実はそれよりも、事故後から入浴を控えていたので、頭がべたべたしてかゆくて眠れないくらいで、そちらの方が苦痛でした。
そのことを看護師さんにいうと、手術の前日には入浴があるとのこと。
実際に、前日の夕方に入浴介助がありました。

 病室では、結構退屈なのですが、病室の介護用ベッドをリモコンで操作して、頭の部分と足の部分を上げたりすると、それはもう極楽です。その姿勢のままぼーっとして気が付けば2時間経ってた、みたいなこともありました。家に置いたら動けなくなるんじゃないかと思います。

 患者誤認防止のために「フルネームと生年月日」を言ってくれ、と言われることが多いです。受付でも診察室でも言われます。入院で点滴をする際にも言われます。
ルール化している病院が多いです。
入院期間中、受付の事務員さんには何度も聞かれましたが、診察してくれる医師や、看護師さんに聞かれることはまれでした。
まぁ、顔を見ればわかるってことなんでしょう。
患者さんの中には、うっとうしがったり、怒ったりする人も居るかもしれませんが、昔実際に、患者さんを間違えて、心臓の手術をするはずの人の肺を、肺の手術をするはずの人の心臓を手術してしまった、という医療ミスがありました。

病院にいって、名前と生年月日を何度も聞かれても「くどい!」と怒らずに、朗らかに応えてあげてください。そのことで、潜在しているいくつかのエラーとそれによる被害が確実に減らせるようです。

 

自転車と居合と殺陣からの卒業?!

交通事故です。チャリ散歩の帰り道、車に追突されました。救急搬送先でレントゲンを取ったとこら、右鎖骨遠位部骨折でした。鎖骨の腕側は、肩甲骨と連動してよく動く場所なので、保存療法は適さない、とのことで手術になるようです。

骨がくっつくまで鎖骨をピンとワイヤーで繋いでおくのだそうで、骨がついたら、今度はピンとワイヤーを外す手術が必要とか。長いお付き合いになりそうです。

自転車は全損、右肩が不自由ということで、居合は不可能。軽い竹光を使う殺陣なら左腕1本で、丹下左膳みたいな立ち回りをするしかないようで(笑)

いろいろ一度に失った感がありますが、また何かこれを機に新しいことに出会いたいと思っています。

 

映画 哀れなるものたち

 珍しいことなのだが、街に出てから時間をつぶす必要があって、近くの映画館で今から見れる映画はないかとスマホで探して選んだのが「哀れなるものたち」(原題:Poor Things)だった。宣伝文を読んでいるとなかなかの奇作・怪作のようなので、興味本位であり、怖いもの見たさである。しかも18禁である。

自殺した妊婦の胎児の脳を妊婦自身に移植。それによって体は大人の女だが、知能は赤ちゃん、という逆コナン君が誕生する。彼女が主人公なのだ。

彼女の行動に沿うように、さまざまなPoorな人たちが現れる。彼らを通して彼女は成長していく。

奇抜な発想で、SFなのか、ファンタジーなのか、悲劇なのか、コメディなのか、一言では評しがたいストーリーが展開され、すべて「ありえない」のに妙にリアリティを感じるのは、Poorな人たちが、みな、現代のリアリティを纏っているからだろうか。

なんじゃこりゃ、と思いながらも、あっという間の2時間あまりで、映画、というか、作った関係者の想像力を堪能した、という印象だった。

 

こちらは原作小説である。

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読書メモ ワンダフル・ライフ 丸山正樹 光文社

 すらすらと読める。テーマはとても重いのだが。

頚損患者への治療やリハビリのシーンがあるが、かなり正確な描写がされれているようだ。

フィクションのストーリーの中に、ニュースで見聞きして記憶にある現実の出来事が時折挿入されていて、実はこの物語の一部をフィクションではなく、現実として生きている人がいることに気づく。

ぐいぐいと引き込まれて、一気読みだった。

構成上の工夫は、なければ途中で本を閉じていたかもしれないと、読後に思った。

じわじわと来る小説である。

 

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シナリオライターの養成学校にいってたことがある


元旦にびっくりして、七草粥の後にひどい風邪をひいて、そのあたりからずっと、いまだに耳鳴りがやまなくて、こりゃあどうしたと思っていたら、もう節分やと。

さて、

40年も前の話である。

社会人になってすぐのころ、夜間のシナリオライター養成学校に通っていたことがある。学校と行っても、趣味の習い事のレベルではあるが。

当時、必殺シリーズを制作していた朝日放送のプロデューサーや監督らが講師陣にいた。

ファンだった必殺シリーズのシナリオが書けるようになればいいな、と思ったのである。というか、必殺だったら書けるかも、と思ったのだ、毎週観てたし、自分が見てみたいシーンを書いたらええんとちゃうんか、と安易に思って。

 

その時に聞いたのか、別の場所で聞いたのか、読んだのか、もはや記憶は定かではないが印象に残っている言葉がある。

シナリオライターは、芸術家ではない。10回に1回100点を出すよりも、10回すべてに70点を出す方が重宝される。

・熟考したセリフも、役者の都合で変更を求められることがある。どころか、主役のスターさんがほかの仕事をいれてしまったのでシナリオ上で主役の出番を減らしてくれ、といわれることもある。さんざんやりとりして修正したセリフが、撮影現場で突発的に変更されることもある。
そういうものだと思って関わらないと、テレビドラマの現場では仕事にならない。使ってもらえない。

なんや、そうなんか…。

 

原作と映像化の脚本は、本音の部分では、原作者が「私の小説をすばらしい映画にしてもらった」ということは,ないのではないか。
魔女の宅急便」の作者も、アニメ化の話には乗り気ではなかったが、登場人物の名前を絶対に変えないでくれとか、いくつか最低限のお願いだけをして原作を手渡したとテレビで言っていた。映画の重要なシーンに、ニシンのパイが出てくるが、映画を観たファンから「ニシンのパイの作り方を教えてほしい」という問い合わせがあるそうだ。実はニシンのパイのシーンは原作にないから、聞くなら宮崎駿さんに聞いてくれ、ということだった。


視聴者としても、大好きだった長編小説が映画化されたので期待して観に行ったら、がっかりした、という経験の方が多い気がする。

短編小説なんかは、映画の方がいいなと思ったことがある。

最近では、この歳になって、すごいものを読んだな…と思った「流浪の月」の映画が、とても微妙だった。なんで?なんでそうなるん…。


かと思えば、よくできたお仕事ドラマで、その仕事と、その仕事をまっとうしようとする人たちの人間ドラマとして十分楽しめているのに、とってつけたような恋愛要素をぶっこんできて、このくだりいらんやろ、と思ったこともある。

結局、美男美女が演じる主役級の登場人物に、恋愛要素を演出する方が、観客が喜ぶ、とプロデューサーが思い込んでいるのだろう。

知らんけど。

どっちにしても責任の所在はテレビ局のプロデューサーだと思う。
テレビ局のPって大手クライアントのご子息とか、縁故だらけだと、マスコミを目指して早稲田に行った友人が嘆いていたのも40年前だ。彼はマスコミをあきらめて、教護院に勤務して、その後介護の世界に行ったと聞いて以降は消息不明だけど。


原作のないオリジナル脚本では、石原さとみ主演の「アンナチュラル」が素晴らしかった。
いじめられっこが自殺しようとするのを止めるときの石原さとみのセリフなど、文字に起こしてパソコンに保存したのだよ。そうさせるようなすごいセリフだったよ。

 

いずれにしても、原作者と脚本家がそれぞれチームを組んで喧嘩する話ではないんじゃないかな。どちらもそれぞれの側の正義があるんだろう。

いえるのは、たぶん、SNSなんかに感情をなすりつけないこと、じゃないのかな。相手が特定できるような感情は特に。

そういう話だと思うけどなぁ。どうなんやろね。

 

 そうそう、この話題の発端になったシナリオライター養成校は、入って半年ほどで、スタッフだか幹部だかが金を持ち逃げしたとかなんとかで、運営できなくなって倒産してしまったのです。

 講師のお一人が、受講生が気の毒だから、と、ボランティアでゼミのような形式でしばらく指導を続けてくれた。上に書いたテレビドラマのシナリオライター心得は、その時に聞いたのかもしれない。

まぁ、若かりし頃の、まだ夢多かった時代の話です。

 

そして海の泡になる 葉真中顕 2020年 朝日新聞出版

 尾上縫をモデルにしたミステリである。
が、全編、バブル経済の頃の世相がさまざまに描かれていく。
当時の様子を振り返りながら、なるほど、こんなことだったか、と今更ながらに、あぶく銭に踊らされた人々の心情を考える。

本書は、フィクションである。だが、バブル経済の狂乱の様子は事実に近いだろう。
そもそも、渦中からバブル経済と呼ばれていたのだ。実態がないあぶく銭だということはみんなわかっていたはず。
それでも目の前の、かなりの確率で勝が見えているマネーゲームに、参画しない方がバカだ、という風潮だったのだろう。

踊らにゃ損損 

 その当時、テレビからは、カネ余り、だの、レジャーなんちゃら、だの、遊べや遊べ、金使え、という言葉があふれていた。
業種的にも、企業規模的にも、バブルになんの恩恵も受けていない私なんぞも、若かったこともあるが、夜な夜な、飲めや、歌えや、と遊び惚けたものだった。
その頃である。関西ローカルの朝のラジオのパーソナリティである浜村淳さんが、金なんかあまってない、資源のない日本が現在あるのは国民が勤勉に働いたからです。
遊べ遊べ、金使え、みたいなことをやってたら早晩ダメになる、と一生懸命しゃべっていた。

 そらそうやろうけど、とは思ったが、結局その通りにバブルははじけて、世の中の浮かれた気分は一気に沈んだ。さすが浜村淳だと大いに感心したものだ。ラジオは今でも続いている。

 会社の近くにあって、常連になっていたカラオケスナックもつぶれてしまった。しばらくしてからそこのマスターが不意に会社を訪ねてきて
店をたたんで、今は保険の営業をやっている、という。
一介の客であった自分を覚えていて、わざわざあいさつに来てくれたのかと感激して思い出話に興じていたら、保険に入ってくれ、という。
それまで生命保険など何の関心もなかったが、結婚したばかりだったこともあり、終身保険を契約した。
後にも先にも、生命保険の類に入ったのはこれだけだ。かれこれ30年ほどになるが、今でも毎月掛け金を払っている。

 小説としては、数名の独白が交互に出てくる構成ですいすいと読める。
最後には、ミステリらしいどんでん返しもある。

バブル期を肌で知っている世代には、懐かしく読めるだろう。

 

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北川景子と茶々と居合

 「どうする家康」の最終回、茶々の最期の独白のシーンは凄かった。
この俳優さんが、こういう演技ができる人だとは思わなかった。
というか、こういう演技をする仕事が来なかっただけだろう。
キャスティングした人のファインプレイだと思う。

前半は、茶々の母親であるお市の方を演じでいた。
男勝りで、颯爽とした姫君をさわやかに演じていた。
こちらは、見たことがある北川景子さんだった。

ドラマの後半で、茶々としてラスボス感満載で現れた北川さんは
あらゆる闇をまとった鬼女だった。

なんかスターウォーズっぽい?

最後の独白は、ネットで引用しているのをあちこちでみかけるのであえて書かないが

もちろん、今の日本、今の政治家には耳が痛いだろう。ってか彼らはそんな痛みは感じないか。裏金の言い訳作りで必死だろうし。

それに加えてこのドラマ、「どうする?」というタイトルにあるように
家康を決してスーパーヒーローとして描かず、弱虫、泣き虫、情けない人物として描き、それらをチームメンバーがいかに支えたか、また、なぜチームメンバーが支えたか、というところを描く集団劇になっている。

 シナリオ作成時期にはウクライナの戦争もあり、戦をすること、戦に勝つことを、決してかっこよくは描かなかった。それどころか、「奪い合うより与え合う世界に」と、一時は、信長以外の武将たちが結託して戦争を放棄する動きまで見せたのである。

 それに対して、長年の大河ファン?からは、ファンタジーだ、ありえない、歴史を無視している、愚弄している、などSNS上で非難が湧きかえっていた。

 散々けなされているのを見て「けなしている人は、いったい何を見たいんだ?教科書通りの歴史を学ぶための教材か?」と不思議な気がしたものだ。と同時に、脚本家も製作スタッフも俳優も、これ見たら腹立つだろうな、やる気なくさないかな、と気の毒になった。

 茶々の最期のセリフの中のひとこと「陰でのみ嫉み、あざける」は、そういう批判コメントに向けたものでもあったのではないかな。とも思ったが、そんな次元で1年間48回の連続ドラマを描くことはないだろう。この脚本家らしいあっと驚く伏線の貼り方を何度か見て感服した。

 


さて、その北川景子さんである。

10年以上前になるが、こういう番組で居合を披露している。

 

以下、NHKアーカイブスのサイトより引用
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010409&ref=search

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BSプレミアム 『輝く女』シリーズ第4弾。初回の北川景子(2012年4月7日)

1.北川景子
北川景子初めてのドキュメンタリー。父祖の地・彦根を訪ね、居合に入門。幼いころの阪神大震災の体験、下積み時代の悩みなど、赤裸々に語る。一方で、合間に見せる素顔、ラーメン・ギョーザ・チャーハンをぺろりと平らげる食欲、ちょっとお茶目な大ボケぶり、そして寝起きの「すっぴん」も初公開!(60分拡大版)
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だそうだ。
北川景子 居合」でYoutubeで検索すると、短い動画がヒットした。

初心者らしい拙い剣さばきであるが、テレビ用の演出もせず、真摯に稽古している様子が見て取れる。

これ、まるまる観ることはできないのかな。受信料払ってるのになー。

 

 

餅の食べ方

今週のお題「餅」

 餅の食べ方っていろいろあるんですかね。

雑煮って日本中にいろんなパターンがあるっていうのは聞きます。

うちは大阪の南部の田舎ですが、京都風の白みそ雑煮です。大根、金時人参、ゴボウ、サトイモ、など具材も決まっています。正直、めんどくさいし、割とどうでもいいんですが、年寄りはこだわります。それが楽しいんでしょうね。

 

さて、餅の食べ方、ですよね。

子どもの頃から、焼いた餅を手で割って、中から出てくる白くて熱々の餅の身?に、皿に盛った白砂糖をべたっとつけて食べます。

ラニュー糖ではなく、料理で使う白砂糖です。醤油は使いません。白砂糖のみです。

甘~いです。ほくほくの餅を割って、砂糖をべったりつけるんで、舌にはまず白砂糖がべっとりつきます。その後、熱々の餅が口の中を満たします。

餅もでんぷんの甘さがありますし、とにかく甘いです。

でも正月やからそれでいいんです。こんだけ、甘いものを遠慮なく食べれるのは、正月だけなので。

そういう、一種のやけっぱち感もただよう「我が家の餅の食べ方」です。

「我が家」といいましたが、父母と私、のことで、東京育ちで醤油好きの家内と子どもたちは、ドン引きしています。

そらそやろ。

 

 

 

 

 

今宵も喫茶ドードーのキッチンで 標野凪 双葉文庫 2022年5月

大人の童話のような読後感だった。

都会の中に隠れるようにある小さな森の奥の小さな喫茶店

茶店はおひとりさま専用だという。

一風変わったマスターが作る、一風変わった料理が、訪れた客の心を癒やす。

 

複雑な話ではないが、誰もが多かれ少なかれ、共感できる部分がありそうな、しんどさを持つ登場人物が、少し癒されて、少し前を向く様子を、喫茶店の隅からそっと覗きむるような、そんなお話である。

短編集だし、年末という気持ちがせわしなくなる時期に、一読してみてはいかがだろうか。

 

 


 

いきるための勉強って?

 うろ覚えなのだが、国語教育の題材が、詩や小説などの文学作品から、契約書などの実用文書に変わるというので、反対する人が元気よく発言しているのをネットで見た気がする。

 その後どうなったんだろう。
 情緒的には、なんだか寂しいというか色気のない話だと思って、最初は反対の気分だったが…。

 けど最近考えたのだ。

 義務教育である小中学校の教室に学生が30人いるとして、そのうち何人が、文学はじめ、学問で身を立てるのか。
 
 逆に、義務教育を終えて、社会の一員として生活していく中で、契約書はじめなんらかの実用文書に触れる人は、30人全員ではないか。

 生きていく、つまりは、社会の仕組みの中で、生活していく上で、大事なチカラはどちらなのか。

 少年期に優れた文学作品に出合い、人としての感性や人の見かた、人生の理解の仕方に影響を受けるのは大事なことだ。

 が、生活者としてリスクを減らすためのトレーニングもそれ以上に大事ではないか。

 そのことを、「国語」という教科の中で、文学作品の代わりに実用文を入れることで学ばせることには、議論が必要だとは思う。

 議論の結果、実用文の学習を国語ではやらないことにしたとしても、新たに「生活」とか「社会人基礎力」などという科目を設けて、学ばせる必要はあると思う。

 先日、うちの社会人1年生が、ショートメール詐欺にひっかかったり、マルチ商法にひっかかって高額な買い物をさせられたり、と、“教科書に載ってるような”初歩的な犯罪被害にあった。
 一人暮らしをはじめて間もなくのことで、浮かれていたのかもしれないが、それにしても、ものを知らなすぎる。

 大学時代は3年間コロナ禍で、人との出会いや行動範囲も限られており、外からの情報といっても、ネットやYoutube経由で自分の興味のある情報だけに限局されている。新聞もニュース番組も見ない。ドラマも見ない。
 よく話をしてみれば本当に何も知らない。世の中の表の仕組みも、裏のからくりも。

 そう思えば、くだらない、といいながらもワイドショーやそれに類するバラエティを見て、「いまどきこんなのに騙される奴がいるのか?」とか「いやいや、これはありえんやろ」とか言ってるのも、ある意味間接的な社会の疑似体験になってはいる。
 
 そういう「社会で生きていくにあたっての情報」は、それこそ義務教育で身に付けさせてあげるのがいいのではないか。
 アンガーマネジメントや、病気の仕組みや人体の仕組み、健康と栄養について、など。
植物の光合成を学ぶと同様に、人間が風邪を引いたらなんで鼻水が出るのか、寝不足したらなんで朝起きられないのか、とか。

 少なくとも必須にしてほしいのは、心身の健康と犯罪被害にあわないための個人でできる範囲のセキュリティの仕方。

 社会の仕組みや、落とし穴など半年で更新されてしまうので、教科書という形の教材は適さないが、警察や銀行、証券会社、消防、医療職、心理職などさまざまな実務家や専門職にお願いして、講演をしてもらえばいいのではないか。

 その上で、学問の道に進もうと思ったら、それ用の高校や大学に行けばいいし、高度に知的な手に職をつけたい、働いて稼いで自立したい、と思うなら、そうすればいい。

 大学無償化という政策も話題になるが、「学問する気もないが、Fランでも大学くらい出てないと就職先が」「高卒で働きたくないし」みたいな理由で大学に行く人の支援を税金で賄わなくても、成人となる18歳時点で、世の中の仕組みを知って、進みたい道を選べるようにしてあげれるなら、その方が良いような気がする。